宇都宮徹壱ウェブマガジン

2016年のイスラエルとパレスチナの旅 憎しみが連鎖する土地でのサッカーの話

 イスラム組織「ハマス」による、イスラエルへの大規模攻撃の報を知ったのは、平和都市・長崎で取材中の10月7日のこと。滞在していたゲストハウスにはTVがなく、また取材スケジュールが詰まっていたこともあり、現地の状況をキャッチアップできたのは、東京に戻ってきてからのことであった。

 この件について、SNSで安易な発言をすることは厳に慎むようにしてきた。イスラエル(ユダヤ)とパレスチナ(アラブ)、いずれかに肩入れする理由はないし、生半可な知識と経験だけで語るべきでもないとも考えていたからだ。その一方で、このまま何も発信しないことについて、居心地の悪さを感じていた。

 理由は2つ。ちょうど先月、イスラエルのスポーツテックに関するイベントに出演したばかりであったこと。そして私自身、2016年にイスラエルとパレスチナを旅しており、現地のサッカーを取材した経験があったこと。1月22日から31日まで、わずか10日間の滞在であったが、今思えば実に貴重な経験であった。

 そこで今週は、繰り返される憎悪や殺戮ではなく、かの地で普通にサッカーが営まれていた時代にフォーカスする。われわれがサッカーをはじめ、週末のスポーツを楽しめるのは、平和であることが大前提。イスラエルとパレスチナにも、つい最近までそうした日常があったのである。

 イスラエル軍によるガザ地上侵攻の開始に世界中が注視する中、現地の「サッカーのある風景」を紹介することで、あらためて平和の尊さを再認識していただければと思う。普段、サッカーばかり取材している私にできることは、それくらいしかない。

 最初の滞在地は、ベン・グリオン国際空港がある国内第2の都市、テルアビブ。とはいえ実質的には「首都」とみなされており、政府機関や各国の大使館もこの街に集中している。中心街は地中海に面しており、暖かい日にはビーチバレーに興じる人々の姿も目にすることができる。

 実はテルアビブは、20世紀に誕生した新しい都市である。もともと荒れ地だった土地に、欧州からやってきたユダヤ人たちが暮らし始めたのは1909年のこと。最近は高層ビルが立ち並ぶようになり、古い時代の建物と奇妙に共存している。

 イスラエル・サッカー界の聖地、ブルームフィールド・スタジアム。1万4000人ほどの小ぢんまりとした競技施設で、当時はハポエル・テルアビブとマッカビ・テルアビブがホームゲームで使用していた。施設は老朽化していることもあり、外観は中東でよく見るようなスタイル。この日のカードは、マッカビ・テルアビブvsマッカビ・ペタク・チクヴァである。

画像

 こちらがホーム、M・テルアビブのゴール裏。女性の姿もちらほら見えるが、基本的に若い男ばかりで、レンズを向けると「撮るんじゃねえ!」というジェスチャーをする。応援スタイルは4人グループのパーカッションを基調としており、チャントのメロディラインは、アルゼンチンとギリシャの流れを組むような感じ。

 M・テルアビブのマスコット(名称不明)。まったく期待していなかったが、やっぱり可愛くない(苦笑)。しかも撮影後に近寄ってきて「なあ、その画像を送ってくれない?」と言ってくる。興ざめも甚だしい。

 試合前にM・テルアビブの元選手が登場。前シーズンで退団し、古巣のヘルシンボリ(スウェーデン)を経て、この日の対戦相手であるM・ペタク・チクヴァに移籍したラデ・プリカ(左)。セルビア人とクロアチア人を両親に持つスウェーデン代表である。ウィキペディアによれば「スウェーデン、デンマーク、 ノルウェーのスカンジナビア3カ国すべてでリーグ優勝を経験した唯一の選手」とのこと。

 セレモニーを終えて、ゴール裏にあいさつに向かうラデ。今日の対戦相手に所属しているにもかかわらず、この歓迎ぶりである(ちなみにベンチ入りはしていなかった)。M・テルアビブには3シーズン所属して、リーグ戦62試合で24ゴール。それほど際立った数字とは思えないだけに、よほど愛された選手なのだろう。このシーンを見ていると「ああ、自分はヨーロッパにいるんだな」と実感する。

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