宇都宮徹壱ウェブマガジン

中国からの留学生が通訳を経てFIFAマスターを目指すまで Jリーグ初の外国人元社員が語るアジアと日本と中国<2/3>

オフ・ザ・ピッチでも存在感を示していたサウジアラビア Jリーグ初の外国人元社員が語るアジアと日本と中国<1/3>

「改革していかなければならない」状況だった1998年のJリーグ

──あらためて、朱さんのキャリアを振り返っていただきたいと思います。中国の上海で生まれたのが1972年の210日。まだ文化大革命が終わっていない時代です。この4年後に毛沢東が死去するわけですが、覚えています?

 覚えています。周りにいる大人が全員、泣いているのを当時4歳だった僕はきょとんとした顔で見ていました。事情はまったく理解できなかったけれど、なんだか泣かなければならない雰囲気だったことは感じていましたね。

──サッカーとの出会いについては、いかがでしょうか?

 子供の頃から、たまにストリートサッカーをやっていました。観る方でいえば、1986年のワールドカップは覚えています。中国で初めて大会が中継されたのは、メキシコ大会からで、学校でもマラドーナの話題ばかりでした。次のイタリア大会の時は、高校卒業のタイミングだったんですが、試験勉強をしながら徹夜で試合を観ていたことを覚えています。

──日本に留学したのは何年ですか?

 イタリア大会があった1990年です。中国の学校は9月に始まって7月に終わります。その年の7月に高校を卒業して、9月に来日するんですが、日本の大学に入学するまでの1年半は長崎でアルバイトをしながら日本語の勉強をしていました。

──そして1992年から一橋大学で学ぶことになります。大学ではどんな勉強をしていました?

 商学部の経営学科で、ゼミは情報産業の勉強をしていました。まだコンピュータもインターネットも普及していない時代でしたが、研究室にはワークステーションのような大きなパソコンがあって、プログラミングを学ぶことができました。今でいうAIについても、当時の教授が「いずれ実現する」なんてことを言っていましたね。そんなわけで大学では経営を学びながらも、情報処理や情報産業といった分野には、その頃から関心はありました。

──将来、スポーツビジネスに関わることは想像もしていなかったですか?

 当時は国際交流に関わる仕事がしたかったです。経営の勉強をしていたので、国を超えてのビジネスがしたいということは、なんとなく考えていました。

──卒業されたのが1996年ですが、すぐにJリーグに入社したんですか?

 Jリーグに入ったのは1998年です。それまでの2年間は、今で言うITソリューションを提供する会社の営業、そしてゲーム会社の国際本部に1年ずついました。どちらも「自分がやりたいことと違うな」と思っていたら、リクルートから「海外放映権をセールスする人材を探している会社がある」と教えてもらって、それが当時のJリーグ映像でした。

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