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【無料公開】『前だけを見る力』松本光平の原点 第2章「15歳での禁断の移籍」より<2/2>

【無料公開】『前だけを見る力』松本光平の原点 第2章「15歳での禁断の移籍」より<1/2>

 

なにもかもが違っていたセレッソとガンバ

 ガンバユースの一般セレクションが行われたのは、中3の冬でした。

 ガンバのユースって、一般セレクションからの入団というのは、ほとんどないらしいんですよ。1学年が、だいたい11人くらい。その年は、すでに12人が決まっていた そうです。1次セレクションのとき、初めてそのことを知りました。

 実は僕、セレクションを受ける前に、セレッソの登録を抹消していたんです。

 面談では、決裂みたいな感じになってしまいましたが、次の日くらいに「今度のユースの大会に登録しようと思っている」という連絡が入ったんですよ。

 中3でユースの大会に登録してもらえるのは、とてもありがたい話でした。それでも「絶対にガンバに行く」という意思を伝えて、その場でお断りしました。そのあとすぐ、大阪府のサッカー協会に電話して、セレッソでの選手登録を抹消してもらったんです。3年間、お世話になったセレッソとの関係は、そこで終わりました。

 結果としてフリーというか、退路を断った状態でガンバのセレクションを受けることになりました。1次には100人以上が来ていて、2次が20人くらい、3次では3人にまで絞られます。僕は最後の3人に残りました。

 最終選考は、ガンバユースでの練習参加でした。合格通知を受けたのは、その年の12月。結局、一般セレクションで合格したのは、僕ひとりだけでした。

 すでに12人が決まっていたガンバユースに、なぜ13人目の選手として僕が合格できたのか。要因のひとつとして、思い当たることがあります。

 中学時代の3年間、セレッソがガンバと対戦するときに、必ず試合をチェックしている、怪しげなおじさんがいたんです。あとで知ったのですが、ガンバのスカウトだった二宮博さんでした。僕はガンバ戦では、けっこういいプレーができていたんです。それで、二宮さんも覚えてくれていたのかもしれないですね。

 ガンバユース1年目(2005年)での背番号は、一番大きい34。ちなみに1学年上が、倉田秋や下平匠。そのまた上が、安田理大、横谷繁、平井将生。倉田秋は、うわさどおりの「バケモノ」でしたね。

  ガンバユースでのトレーニングは、それまでいたセレッソU-15とは、なにもかもが違いました。

  4対2でのボール回し、いわゆる「鳥かご」ってあるじゃないですか。本当に4対2だけで、1時間くらい繰り返していましたね。ガンバの指導者は口をそろえて「4対2にサッカーのすべてが詰まっている」と言っていました。

 ボールを止める、蹴る、(相手に)付ける足、判断、距離感、角度。パスのスピードにしても、ひとつひとつにすごくこだわっていて。もちろんセレッソでもやっていましたが、あそこまでこだわっていなかったです。

 当時のユースの監督は、島田貴裕さん。ひとつひとつのプレーの精度に、とにかくシビアな人でした。僕が高校2年になったとき(2006年)、現役を引退したばかりの松波正信さんがユースのコーチに就任したんですが、やっぱり僕たちへの要求が高かったです。つい1年前まで現役だった、松波さんの技術のひとつひとつが、見ていてとても勉強になりました。

 もうひとつ、セレッソとの大きな違いが、ピッチ外に関する規則です。ただし15年以上も前の話ですので、今はぜんぜん違うという前提で聞いてください。

 セレッソ時代は、実は食事の時間が一番憂鬱でした。合宿なんかだと、どんぶりに山盛りのご飯を全員が3杯食べないと、食堂から出られなかったんです。当時の僕は食が細かったので、何度もトイレに駆け込んでは吐いていました。

 食事以外でも、シャツはズボンに入れるとか、長髪や毛染めは禁止とか、ことピッチ外での規則に関してはセレッソのほうが厳しかったです。それがガンバだと、ご飯の量は自分で決められましたし、髪型や服装も自由でした。

 要するに「自分のコンディションなんだから、すべて自分で考えなさい」という話なんですよね。相手が子どもでも、自主性を重んじるというのが、ガンバの基本的な考え方でした。

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