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【無料公開】『前だけを見る力』松本光平の原点 第2章「15歳での禁断の移籍」より<2/2>

セレッソとガンバの両方で学んだからこそ

 ガンバユースって、当時から技術が高い選手が多くて、僕はついていくのが本当に大変でした。特に先輩たちは、足元の技術はすでに完成されていたので、一般セレクションで入ってきた僕とは大きな差がありました。

 逆に走力では、僕はダントツで一番。ですので、そこを伸ばしていくしかないと考えるようになりました。

  コーチだった松波さんの言葉で、今でもすごく印象に残っているものがあります。

「ミスター・ガンバ」と呼ばれていた松波さんですが、実はプロになって間もない頃は「自分にはトップで長年生き抜くための、ずば抜けたものがない」って思ったそうです。

 じゃあ、なにが一番得意なのかと考えたとき、導き出した答えがポストプレー。それから松波さんは、ポストプレーだけは誰にも負けないように、磨きをかけ続けたそうです。そうした経験から、松波さんは「誰にも負けない武器を身につけろ」と、僕たちユースの選手に、ことあるごとに言っていました。

 僕自分に当てはめたとき、まずは走力。それと当時は、ロングスローも得意でした。そういうストロングポイントだけは、絶対に誰にも負けないようにしようと、トレーニングが終わったあとも近所の公園で自主トレしていました。

 僕が走るのが得意だったのは、間違いなくセレッソでの3年間のおかげでした。

 当時のセレッソU-15では、たぶん国見高校よりも走らされていたと思います。戦術うんぬんよりも「前に蹴って勝負しろ!」とか「縦に仕掛けてクロスを上げろ」とか。今は違うと思いますが、そんな感じでした。

 それがガンバユースでは、走りのトレーニングよりも、技術と戦術。技術面では「止めて蹴る」ことの大切さ、戦術面では「サッカーの奥深さ」を学びました。サッカーってこんなに頭を使うのかと、毎日が本当に新鮮な学びの連続でした。

 当時のガンバとセレッソは、なにもかもが正反対。でも、その両方の育成で学ぶことができたからこそ、今の僕があるんだと思っています。走るだけでも、技術だけでも、ダメだったでしょうね。自分でも、ぜいたくな話だと思います(笑)。

 だからこそ、僕はガンバとセレッソの両方に感謝しています。

 高2になってからは、努力の甲斐もあって、右サイドバックでレギュラーになれました。この年に全国大会で優勝したのは、ガンバユース時代で一番の良い思い出です。やっと日本一になれた。ガンバに来て良かった。心の底から、そう思いました。

  でも、そのあとに右肩を脱臼してしまって……

  原因は、高校の体育でした。柔道だったんですけど、相手に投げられそうになったとき、無理に耐えていたら「ぐにゃ」ってなって。すぐに先生がパコンって嵌めてくれたんですけど、それからロングスローができなくなってしまいました。

  3カ月くらいは別メニューで、しっかり治そうと思っていたんです。ところが復帰の直前、またしても体育でやってしまって。

  今度はバドミントンで、スマッシュのテストがあったんです。リハビリ中なので、と言ったんですけど「それなら単位はやれない」って。それで、仕方なくやってみたら、またしても「ストン」って脱臼です。

「おまえ、なに考えとんねん!」

 当時、ユースのトレーナーだった吉道公一朗さんには、ものすごく怒られましたね。 それからはずっと、リハビリと別メニューの日々。復帰後も、ぜんぜん試合には出られませんでした。

 僕が高3のとき(2007年)、日本クラブユースサッカー選手権(U-18)で、ガンバは2連覇したんです。ジュビロ磐田との決勝は、4対2と点差が開いていたんで、最後に出番があるかなと思っていたんですが、そのまま終了でした。

 大会MVPは、先制点を決めた同期の安田晃大。飛び級で上がってきた宇佐美貴史もゴールを決めていました。僕は記念写真の真ん中に収まっていますけど(笑)、結局のところ1試合も出場機会はありませんでした。

 大会後、トップチームに昇格できないことを伝えられました。

 予感はありましたよ。最後の年は、ぜんぜん試合に出ていませんし。それに、僕のひとつ上が3人、もうひとつ上が6人、トップチームに昇格していました。それもあって、難しいのかなと。僕の代は、安田晃大とGKの木下正貴が上がりました。

 実は大会が終わったとき、トップに上がれないだろうと思って、セレッソに電話しているんです。「今からでもそちらに戻れませんか」って、もちろんダメ元で。

 確かに僕は「禁断の移籍」をしました。それでも「ガンバユースでもっと上手くなって、いずれはセレッソに帰ってきます」と言って出てきたので、自分なりには筋が通っていると、そのときは思っていました。

 当然、相手にされませんでしたけど。

 それで落ち込んだかというと、そんなことはなかったですね。ガンバもダメ、セレッソもダメ。だったら、どうやってプロになればいいんだろう?  そのことしか、当時は頭になかったですね。

 いちおう、大学進学も考えたんです。ガンバユース出身という肩書があれば、わりと名の通った大学に、どこでも推薦で行けました。それで、練習にも参加してみたんです。でも、雰囲気もいまいちだったし、わりとチャラい感じで(笑)。

 ここに4年間もいたら、絶対に遊んでしまって、プロにはなれないなって思いました。だったら、どうするか? そのとき、初めて考えたんです。

 海外という道も、あるんじゃないかって。

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