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【無料公開】わが「心の師」が語る雑誌の黄金時代と50代への覚悟 佐山一郎(作家・編集者)2013年のインタビューより<2/2>

日本代表の取材現場から遠ざかった理由

──さて、私が佐山さんのお仕事をリアルタイムで楽しませていただいたのが、『週刊サッカーマガジン』で連載されていた「バックスタンドの眼」という連載でした。当時、日本代表監督だったフィリップ・トルシエに関する言及は何かと話題になりましたよね。佐山さんご自身は、トルシエにインタビューされたことは?

佐山 『AERA』の「現代の肖像」で、ちゃんと書きたかったんです。そのために(通訳のフローラン)ダバディと仲良くなって、自宅に招いて飯を食べたりしていたんです。それで「そろそろインタビューやるか」となったときに、サンドニでフランスに05で負けたのがあったでしょ?

──2001年3月の「サンドニの悲劇」ですね。

佐山 そうそう。あれから彼、ますますおかしくなっちゃいましたよね。エキセントリックというか、6月のコンフェデレーションズカップでは、キャプテンマークを付けて会見に臨んで、机の上に寝そべったり、腕に巻いたマークを記者に投げつけたり。あの頃からですね、書くべきことが書けなくなって、自主規制とかある種の検閲とかの空気が蔓延し始めたのは。

──あそこからですか。あの時は、佐山さんが「トルシエの指導に暴力がある」という記事が、ものすごいバッシングを受けていた記憶がありました。

佐山 ネットで「人間の顔をした野蛮」と書いたら、けっこう炎上気味になりました。ただ、当時の感覚としては協会が「この程度の外国人監督についに捕まっちゃったのか……」っていう情けなさがありましたね。

 会長だった岡野(俊一郎)さんにしても、IOCでいろいろ嫌なフランス人と付き合っていたみたいだけど、そういう絶対謝らないタイプって、けっこうフランス人にはいるんだよね。僕なんかは79年くらいから、よくフランスに行ったから、それなりにわかっているつもりだったんだけど……

※編集部註:このあと、オフレコ話のオンパレードにつき割愛)

佐山 ……ホント、こりゃ書けないよね(笑)。

──いやいや、サッカー版『噂の相』って割り切るなら、これはこれでありなんでしょうけれど。ただ、これは2002年以降に何となく感じていたんですが、佐山さんご自身が日本代表の取材現場の雰囲気に、明確な違和感を覚えるようになっていたのではないでしょうか?

佐山 そうですねえ。ジーコ時代の予選でイランとのものすごいアウエー戦(05年)があったじゃない。良さそうなところを選択して、テヘランのホテルに一人でたどり着いたら、なぜか他のメディア関係もみんなそこ。その時に、どこかのTV局の若いスタッフがメディア専用バスの中で、「早く帰りてえなあ」みたいなことを堂々とほざいていたのが、ひとつのきっかけだったかもしれない。

──うーむ、似たような空気は最近の現場でも感じることがありますが。

佐山 しかも、メディアバスを用意していた日本の旅行代理店が「今日の予定」なんてのをホテルのロビーに貼り出していて「おいおい、修学旅行かよ、これ。ふざけるな」と(苦笑)。それから記者席では、天性の仕切り屋さんに「どけ」と言われたり。一発言い返したけど、面の顔はけっこう薄くなかった(笑)。

──それからすぐの06年だったと思いますが、佐山さんは日本代表の現場から、ぱったり姿を現さなくなりますよね。とても残念に思っていたんですが、ジーコ・ジャパンの惨敗を受けて、サッカーメディアが縮小傾向になったことと、やはり関連があったのでしょうか?

佐山 そうですね。『月刊PLAY BOY』が休刊に追い込まれた段階で、自費取材をせざるを得なくなってしまった。サッカーに関しては、わりと恵まれた取材人生を送ってきたから、発表する紙媒体もないままに取材を続けようという判断が、しにくかったです。あとはタメ口を叩くような若い選手に対して、卑屈になろうとも思わなかったですね。

──まあ、あえて名前を出しますけれど、たとえば中田英寿にインタビューをしようというのは?

佐山 ぜんぜんないですね。そもそも彼自身、モノローグのシステムを作っちゃっているし、事務所もまた予定調和的なものでないものは絶対に認めないでしょ。この間の前園真聖の(飲酒酩酊)事件の処理だって、完全に自己完結してるし。

──所属事務所の迅速なメディア対応には舌を巻きましたよね。ちょうど私は代表の欧州遠征取材で日本を離れていましたが、帰国したら前園の会見のFAXがわが家にも届いていましたから(笑)。一度しかインタビューしていないのに、わざわざ送っていただいて恐悦至極でしたが。

佐山 僕は彼の全盛期に『GQ 』でファッションデザイナーのポール・スミスと前園の対談とも言えない対談の司会をして、そのあと、フランス人の友人のレストランで生涯初フォアグラをゾノに食べてもらった。だけど、酒はその時も苦手そうだった。

──実は現地で、協会幹部が前園の一件について質問されていましたが「情報がないので何もコメントできない」の一点張りだったのと好対照でしたね。まあ、これもまた余談ですが(苦笑)。

サッカーは「そんなに高く見られてない」?

──佐山さんは今、かなり引いたところからサッカージャーナリスムの界隈をご覧になっているわけですが、どういうことをお感じになりますか?

佐山 錯覚かもしれないですけど、遠望することによって、逆にこれまで以上によく見えている実感があります。しかし、それとて『サミット』と『批評』があるからのこと。お声が掛からなくなったら終わりという安堵感と緊張感でやってます(笑)。あと、やっぱり、気になる人が、何人かいるよね。たとえば、「宇都宮徹壱、この先生は、この先どうすれば、更なる開花を遂げるんだろう」なんて風に。

──ははは(笑)、ご心配いただき痛み入ります。今回のインタビューでも、50代の書き手のありようというか、仕事の介護との両立というか、そういった部分でもいろいろ貴重なアドバイスをいただいて感謝しています。

佐山 やっぱり仕事はね、年をとると順調に減るもんですよ。僕が29歳の時に、小林信彦さん(小説家、コラムニスト)が「もうじき50歳ですよ」とおっしゃった。敬愛しつつも、当時はそのぼやきのような嘆きを聞いて、「うわっ、すげえじいさんなんだ」って条件反射的に思ったからね。光陰シュートの如し、サッカー少年老い易く、学成り難しで、そんな僕も今年で還暦を迎えてしまったわけです(笑)。

──そりゃあ自分よりも一回り以上の先輩を見たら、誰でもそう思うでしょう(笑)。でもどうです? 60歳という節目を迎えて、そろそろ集大成的なものを考えるのですか?

佐山 集大成という点では、岩波書店から去年出した石津(謙介)さんの長編評伝で、一つライフワークを終えたんですよ。これね、20年かかっちゃったんですよね。怠けていたってわけではないんだけど。だけど、ちょっと代表作に時間かけ過ぎちゃった。

 そうした意味では、自分を見失ったというか。単行本は、自分のペースを守りつつコンスタントに出し続けていかないとズレていきます。それが半年に1冊ペースなのか、1年に一冊なのかは、よくわかんないんですけど。

──その感覚、8冊しか出していない私にもわかります。ちょっと油断して本を出さないでいると、あっという間に2~3年は過ぎ去ってしまいますからね。佐山さんは新著を出したばかりですが、次回作の構想というものはありますでしょうか?

佐山 ちょっと今やりたいのは、エッセイ集をやりたいんですよ。わりとこう文学寄りながらも、きちんと売れる端正なエッセイ集。

──それはもう、サッカーに関係なくっていう感じですね?

佐山 サッカーは、ちょこちょこっと渋く入れるかもしれないです。なにかしら違う形で文学的成功を収めないと、サッカーで続けて来たことも輝いてくれないと思っています。そもそもサッカー界っていうのは、僕らが思っているよりも世間一般では高く見られていないんじゃない? だからサッカーにかかわる人は、勲章もらおうが殿堂入りしようが、そこのところだけはちゃんと見据えておく必要があるんじゃないかな。それがわかっていたら、不祥事だって半減しますよ。

──その点については、最近いろいろ思うところがあります。最新号の『サミット』の書評コーナーで、佐山さんに『フットボール百景』を取り上げていただきましたが、そこで「サッカー専門からの越境の期が熟しているのだと思う」という一文が刺さりましたね。軸足をサッカーに置くこと自体は、当面変わらないと思いますが、「より一層写真に比重を置いたらどうか」という佐山さんのご意見は、もう少し自分の中で咀嚼したいですね。

佐山 まあそのへんのお話は、宇都宮先生の出版を祝してのシャンパンもどきでも飲みながら……

──そうしますか(笑)。今日はいろいろと参考になるお話、ありがとうございました!

佐山 こちらこそ、お世話になりました。と、実るほど頭の下がる稲穂かな(笑)。

<この稿、了>

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