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【無料公開】わが「心の師」が語る雑誌の黄金時代と50代への覚悟 佐山一郎(作家・編集者)2013年のインタビューより<2/2>

STUDIO VOICE』でのラモスインタビュー

──佐山さんの初期のサッカーに関する記事で、私にとって伝説となっているのが『STUDIO VOICE』81年9月号に掲載された、日本に帰化する前のラモス瑠偉のインタビューです。これってペンネームで書かれたそうですね?

佐山 そう、「佐川一蹴」っていう。ちょっとパリ人肉事件の方、佐川一政に似ているよね(笑)。

──これまた若い人には、ちょっとわからないでしょうね。気になる方はググってください。ただし、閲覧注意で。それにしても、なぜラモスだったんでしょうか?

佐山 実は妻の家の近くに清水初音ちゃん(ラモス瑠偉氏の夫人)が住んでいて、フランシス・ベーコンばりの抽象のいい油絵を描いていたんですよ。で、「ちょっと付き合っている素敵な人がいて、読売クラブでサッカーやっているのよ」ってことで、チケットをもらったりして。

──へえ、そういうつながりがあったんですか! 残念ながら初音さんは2年前にお亡くなりになりましたが。

佐山 僕は結婚式も行ったし、葬儀にも参列することになりました。そういうケースって、若いとまだあまりないでしょ。

──そうですよね。で、最初のコラムはどんな内容だったんですか?

佐山 83年6月のジャパンカップ(キリン杯の前身)、日本代表対ボタフォゴ戦(3)の観戦記みたいなものでした。書き方も今と同じ無手勝流(笑)。たしか「早く協会は全員をプロ化しろ、無理なら、一刻も早く選手は亡命しろ! 」みたいな威勢のいいことを書いたかと。加藤久、岡ちゃん(岡田武史)、原博実の現役時代ですね。原選手はその試合で、唯一のゴールを挙げてます。

──それにしても、当時の『STUDIO VOICE』でサッカー、しかも読売クラブの選手を取り上げること自体、かなりぶっ飛んでたと思うんですけど。

佐山 当時のバックナンバーを見せますよ(といって再び本棚から分厚い合本を取り出す)。これですね。

──うわー、これまたすごい! 昔の『STUDIO VOICE』の誌面がまとめられているんですね。広告なんかも、いかにも80年代の空気が横溢していて、ずっと眺めていたいくらいですよ。ラモスの記事はこれですね。佐山さんの質問が、またいいですね。「六本木が好きらしいね。六本木にサッカー場はないよ」(笑)。これ、評判はどうでしたか?

佐山 初音ちゃんのご両親が喜んでくれました(笑)。そんな何万部も売れるような雑誌じゃなかったんだよね、ひたすらもう青山、六本木、原宿で異常に強いだけ。

──結局、佐山さんは『STUDIO VOICE』の編集長は何年やられたんですか?

佐山 3、4年じゃないですかね? ブルース・ウェーバーの写真使用に関する権利の件でもめてしまって、営業のトップと喧嘩してしまったんです。

 初期の『STUDIO VOICE』は、アンディ・ウォホールの『Interview』と独占契約を結んでいて、トンデモなレベルの写真やイラストを好きなように使えたんです。その有り難い契約を勝手に切ってしまったことで、なんだか魂が抜けたような雑誌になってしまった。そういうのがきっかけになって辞めてしまったんです。

──ブルース・ウェーバーの件は、最近知ってびっくりしました。今でこそドキュメンタリーの大家みたいなポジションですけど、80年代の半ばは商業写真で売り出し中だったんですよね。カルバン・クラインの下着の広告で有名になったのもこの頃でしょうか?

佐山 それは、もうちょっと後。その前にロス五輪(84年)の公式写真家ということで、アメリカ代表選手のポートレイトを撮っていて「ウェーバーのは使わないでくれ」というテレックスは来ていたんだけど、例外は作りたくないから掲載を強行したら、死ぬほどセコイ野郎で、もめにもめて1点あたり何ドル払えとかで。そこから僕の運命も大きく変わっていきましたね。五輪嫌いにもなりますよ、そんな守銭奴みたいなマネされるとね。

Number』でのカズインタビューの舞台裏

──佐山さんにとっては思い出したくない出来事でしょうが、それが契機となってサッカーの世界に接近したのは興味深いところです。その翌年には、『Number』の特派員としてワールドカップ・メキシコ大会出場を目指す日本代表のアジア予選に帯同したわけですが、北朝鮮はもちろんのこと、80年代の半ば頃は韓国に行くのもかなり緊張感があったんじゃないかと思います。当時の編集者だった今村さんは、かなり肝が座っていたんでしょうね。

佐山 ルポライターの竹中労さんがお師匠で、学生時代からアジアを回っていたみたいですね。今ちゃんからは「最初の海外取材が平壌なんて、すごいことですよ!」と言われました(笑)。

──確かに。そういえば、佐山さんがコム デ ギャルソンの衣装に見を包んで平壌ホテルの前で記念撮影した写真が残って、どんな現場でも「佐山スタイル」を貫いていたことに感動したわけですが(笑)、この時はたったひとりの特派員だったんでしょうか?

佐山 本当は、当時文藝春秋にいたフォトグラファーの山田一仁さん(現在フリー)も同行したかったんですが、そこまでお金が使えないので、急きょ僕がカメラマンも兼任することになって、山ちゃんからは、付け焼き刃のテクニックをいろいろ教えてもらいました。

──ええ、そうだったんですか! 山田さんといえば、プレミアリーグで数少ない撮影ライセンスを持つフリーの日本人フォトグラファーであり、FC岐阜のオフィシャルフォトグラファーですよね。私もよく存じ上げていますけれど、まさか佐山さんのカメラの師匠とは知りませんでした(笑)。

佐山 そうそう! 買ったばかりのミノルタα7000で、バリバリ撮っていましたよ。平壌のスタジアムでは、スーツ姿で二眼レフカメラぶら下げた中国・新華社通信のカメラマンの隣。『サッカーダイジェスト』からも滝川敏之さんが派遣されていましたけど、ゴール裏の日本人はなぜか僕だけでした。

──すごい話だなあ(笑)。当時はデジカメなんてなかった時代ですから、大変さは推して知るべし、ですよね。もうひとつ、『Number』での佐山さんのお仕事で印象深いのが、Jリーグ開幕直後に絶頂期のカズへのインタビューでした。たしかカズが約束の時間に遅れてきたことが冒頭で触れられていて、そのくだりを読むだけで何だかものすごくスリリングな気分になったことをよく覚えています。かなり現場は緊迫していたんでしょうか?

佐山 あれはね、実はカズとジーコの対談だったの。あれを読んだだけでは、ぜんぜんそんな感じにはなっていないけれど。

──あ、対談だったんですか? てっきりカズの単独インタビューだったと思っていたんですが、違ったんですか。20年目にして明かされる真実だ(笑)。

佐山 ご指摘のとおり、あの時はカズが遅刻してきたんだけど、それを知ったジーコがブチ切れて帰ってしまったの(笑)。「オレより遅く来るとは何事か! 少なくとも、オレよりも前に着いているべきだろ!」ってなムード。

──ブラジル人のジーコのほうが、よっぽど時間にしっかりしていたと(苦笑)。ちょっと意外な話ですね。

佐山 しかも「通訳はどうするの?」って編集者に聞いたら、「昨日、上智大学に(募集の)紙を貼っておきました」みたいなこと言っているし(笑)。じゃあ、カズに一人二役、通訳もやってもらうか~、あっはっはーって。

──それはひどい(笑)。そりゃあ、文藝春秋の近くに上智大学はありますけれど。いやはや、今では考えられないくらい大らかな時代だったんですね。

佐山 ある意味、面白い時代でしたよね。サッカー協会だって、まだ原宿の岸記念体育会館の小さい部屋にあって、代表監督のモリチン(森孝慈)がいて、平木(隆三)さんがいて、あとは3~4人の職員がいて、という感じでしたよね。

 それがあんなにツルツルした大きなビルに入ってしまうと、なんだかうそ臭く感じてしまいますよ。中学時代にわざわざ協会まで前売りチケットを買いに行った人間からすると、なおさらにね。省庁や成り上がりの宗教団体じゃないんだからさ。

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