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【無料公開】わが「心の師」が語る雑誌の黄金時代と50代への覚悟 佐山一郎(作家・編集者)2013年のインタビューより<2/2>

【無料公開】わが「心の師」が語る雑誌の黄金時代と50代への覚悟 佐山一郎(作家・編集者)2013年のインタビューより<1/2>

<2/2>目次

*原体験としての東映フライヤーズと東京五輪

*『STUDIO VOICE』でのラモスインタビュー

*『Number』でのカズインタビューの舞台裏

*日本代表の取材現場から遠ざかった理由

*サッカーは「そんなに高く見られてない」?

原体験としての東映フライヤーズと東京五輪

──実は今日、こちらに伺うために自宅の本棚を漁って、随分と古いムック本を発掘してきました。『エイティーズ 80年代全検証 いま、何がおきているのか』(河出書房新社)という、タイトルどおり80年代のさまざまな事象をジャンルごとに俯瞰・検証する内容なんですが、スポーツの章では佐山さんがお書きになっているんですよね。おそらくこれが、初めて私が読んだ佐山さんの文章で、もう23年前の話になるんですが。

佐山 懐かしいですね。たぶん同一人物による犯行だと思います(笑)。これ、後でコピーさせてください、というのもなんか変な話だけど。

──で、それぞれのジャンル、たとえばアートとか音楽とかファッションとかジャーナリズムとか、各章の最後に80年代に起こった出来事が簡単な年表にまとめてあるんですが、スポーツの年表ではサッカーがひとつもないんですよね。釜本(邦茂)の引退もなければ「メキシコの青い空」うんぬんの話さえもない(苦笑)。

佐山 ああ、なかったの。僕はこの時、何を書いたのかな。「虎フィーバー」に「冠イベント」に「競技場問題」か、なるほど。88年ソウル五輪、90年イタリア・ワールドカップと予選敗退して、しょんぼりしてたのかな。石井義信体制と横山謙三体制を、痛快グッドルーザーでメディアを大事にしてくれた森孝慈時代と無意識のうちに比べていたのかもしれない。

──かもしれませんね(苦笑)。ところで、佐山さんが『STUDIO VOICE』から離れて、当時から増えてきつつあったフリーランスになられたのは84年とのことですが、以降は各界の著名人へのインタビュー取材を数多く手がけるようになります。では、スポーツというジャンルにアプローチするようになったのはいつ頃からでしょうか?

佐山 これが、サッカーにまつわる私のすべてのスタートみたいな原稿なんですよ(と言って84年9月20日発売の『Number』107号、釜本引退特集号のインタビュー記事のコピーを取り出す)。「吉村大志郎のまだ終わらないボールリフティングネルソンと呼ばれた少年たちよ」っていうタイトルでの尼崎取材。吉村さんは、今のセレッソ大阪の前身にあたるヤンマーの名MFだったんです。

──03年に亡くなったネルソン吉村ですね(後に帰化して吉村大志郎)。ああ、これは当時のご家族の写真ですか。すごく貴重な記事ですね。

佐山 いちおう、自分も中学時代に「ネルソン」と呼ばれたことがあることを、あえて言っておきます(笑)。「柔軟でスキルフル」みたいな意味だったんです。同じ号でもう1本やってて、それが当時はまだ寡黙な男で鳴らした木村和司インタビュー。タイトルは「ハッとしてSHOOT! 日産フットボールクラブ木村和司の誘惑の曲線(カーブ)」。

──いちおう若い世代に解説しておくと、田原俊彦の『ハッとして!Good』にかけているわけですね(笑)。

佐山 タイトル付けは編集部です。あとは、東映フライヤーズについて『宝島』1980年2月号に書いた「『故郷』にあった球団」。これがほんとのデビュー作になります。僕が小学校4年生の時、駒沢がオリンピック公園になる前で、木造の野球場。東映の本拠地だったんですよ(1962年に取り壊し)。でもその後、駒沢を離れて、さらに日拓ホームフライヤーズ、日本ハムファイターズと名前を変えて、今は札幌でしょ。そうするともう土地の記憶としての愛情が薄れていっちゃいますね。

──ヴェルディが川崎からいなくなったような喪失感だったんでしょうか。

佐山 喪失感以上ですね。横浜フリューゲルスの合併事件に近いかもしれない。やっぱりワインと一緒で、球団やクラブは土地のものなんだなとつくづく思います。これを書いたことで、Jリーグやサッカーの世界に接ぎ木されていったようにも思えます。

──私は世代的にまったく記憶はないんですが、世田谷区内の駒沢周辺をホームタウンとしていたプロ野球球団があったというのは、今のJリーグとは違った地域密着の空気感があったんでしょうね。そして東映が駒沢から出て行って、ほどなくして東京五輪(64年)が開催されるわけですが、この時に佐山少年は初めてサッカーの国際試合というものを目撃するわけです。確かモロッコ対ハンガリーでしたっけ? 会場は国立競技場ですよね。

佐山 座っていた席まで覚えていますよ。バックスタンドの上の方、南四門側の34番出入り口近くあたりだったかな。でも、試合のディテールはあんまり覚えてないんですよね。(試合後)区立小学校に戻って、リンゴを1個もらった覚えがある(笑)。オマケも付いて嬉しかったんでしょうね。

──当時の少年たちにとって、ナンバーワンスポーツは断然、プロ野球だったはずです。そんななか、佐山さんにとってサッカーっていうのは、数あるスポーツの中でどのような位置づけだったんでしょうか?

佐山 あの時代にサッカーに向かうような人って、野球を含めた他のスポーツで開花せず、最後にたどり着くようなところもありました。僕らが作った中学のサッカー部は、20連敗するような弱小校だったんだけど、その翌々年に、都で準決勝まで行ったんです。相手は田嶋幸三さんがキャプテンをしていた用賀中学で、草の根民主主義的というか、情熱と努力と知力で必ず報われる競技なんだな、という気付きは当時からありました。

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