宇都宮徹壱ウェブマガジン

「なでしこ」を諦めた彼女がピッチに戻るまで 一ノ宮頼子(シンガーソングライター)<3/3>

「なでしこ」を諦めた彼女がピッチに戻るまで 一ノ宮頼子(シンガーソングライター)<2/3>


日本一周の旅と音楽への回帰、そして人生初めての就活

──大病がきっかけで、頼子さんはホッケーから再び音楽に回帰するわけですが、安静療養の時に車を走らせながら日本中を旅したそうですね。

一ノ宮 保険金が下りてきたので、そのお金で旅をしようと思ったんです。1カ月くらいの短い旅だったんですけれど、日本国内をしっかり見ておこうということで、テントを積んで当時飼っていた犬たちも連れて日本一周しました。それで、たまたま最後に立ち寄ったのが、京都丹後。

──そういえば『丹後恋唄』というアルバムを出していましたよね(PV)。

一ノ宮 そう! この時の旅がきっかけだったんです。丹後には亡くなった祖母が住んでいて、子供の頃にはそこで夏休みを過ごしていたんですけれど、忙しくなってからは随分とご無沙汰していたんですね。祖母が住んでいた家に立ち寄って、いろいろな思い出が湧き上がっていく中で生まれたのが『丹後恋唄』だったんです。

──この時の旅が、シンガーソングライターとしての復活の契機になったわけですが、北海道で暮らしていた時はまったく音楽から離れていたんでしょうか?

一ノ宮 実は帯広にいた時には、初めてのライブをやらせていただいたんです。というのも、最初にCDデビューをした時って、一切ライブをやっていなかったんですよね。

──つまり、レコーディングだけだったと?

一ノ宮 そうなんです。最初に所属したソニーの戦略が「メディアに一切顔を出さない」「ライブもあえてやらない」というもので、レコーディングの楽曲も完全に打ち込みだけだったんですよ。私が作曲したものが、アレンジされてCDになりましたという感じ。それが帯広のライブでは、初めて自分でピアノを弾きながら歌ったんです。そこで初めて、音楽の面白さや奥深さを知ることができたんです。すでに30歳を過ぎたタイミングだったんですけど。

──その後、音楽活動を続けながらも、2016年に初めての就職をされます。理由は何だったのでしょうか?

一ノ宮 ちょうど音楽業界がどんどんシュリンクしていく時期で、このまま音楽一本でやっていくことに不安を感じるようになったんですね。それで大学卒業から10年以上が経って、初めて就活なんていうものをやってみたわけです(笑)。

──そうでしたか。その人生初就活で、最も重視したのは何だったのでしょう?

(残り 2010文字/全文: 3047文字)

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