宇都宮徹壱ウェブマガジン

「フロンターレみたいなクラブが全国にあればいいよね」 シャレン!アウォーズから考える社会連携の意義<2/3>

「フロンターレみたいなクラブが全国にあればいいよね」 シャレン!アウォーズから考える社会連携の意義<1/3>

転機となった東日本大震災と「高田スマイルフェス」

──ここで鈴木さんの前職である、川崎フロンターレ時代のお話を伺いたいと思います。というのも、シャレン!が誕生するきっかけとなっているのがフロンターレであるのは明らかで、そこの出身である鈴木さんが現在のポジションにいらっしゃるのも必然だと感じるからです。これは以前にもお話されたと思いますが、実は鈴木さんがサッカーの世界に飛び込むきっかけとなったのが、12年前の東日本大震災だったそうですね。

鈴木 おっしゃるとおりです。当時は38階建てビルの33階のオフィスで働いていたんですけれど、ものすごい揺れを経験してコピー機が横滑りするような感じだったんです。あの時に「死」というものを初めてリアルに意識しました。その後、しばらく出社できなくなって、いろいろ考えました。結論として、これからの人生、好きなことを仕事にしてみようと思ったんです。

──ずっとサッカーをやってきた鈴木さんですが、新卒での就職先にスポーツ業界を選ばなかったのは何か理由はあるんでしょうか?

鈴木 Jリーグが開幕した時、僕は大学生だったんですが、スポーツ業界への就職というのが、まだよくわからない時代でした。業界そのものが成熟していなかったというのもあると思うんですが、スポーツに関わる仕事といえばスポーツメーカーくらいしか思いつかなかったんですよね。ただし、そういう世界で自分が働くべきか、迷いもありました。仕事にすることで、それが辛くなったり嫌になったりした時、好きなスポーツそのものが嫌いになってしまう気がしたので。

──川崎フロンターレに入られたのは2011年ですか?

鈴木 2011年の59日だったかな? GW明けにお世話になることになって、最初はフロンタウンさぎぬまというフットサルコートの運営。次の年からはオフィシャルグッズショップで1年、店長をさせていただきました。それから天野(春果)さんがいたプロモーション部に移動して、ボランティア担当やイベント企画にも関わらせていただきました。

──そうすると、陸前高田の復興支援も担当されましたか?

鈴木 もちろんです。私が行くようになったのは2012年からだったと思います。震災から5年がたった2016年に「高田スマイルフェス2016」というイベントを陸前高田で実施したんですけど、めっちゃ大変でしたね。2年くらい打ち合わせで、毎月川崎と陸前高田とを何度も行き来していましたから。そのイベントは「等々力の試合日のイベントをそのまま陸前高田でやろう」ということで、等々力にあるテントやイベント備品を10トントラックに載せて運んだんです。でも、計算上は収まるはずの備品が入らなくて、いったん降ろして積み直すなんてこともやりました。

──そんなこともあったんですか!

鈴木 そうなんです(苦笑)。あのイベントは本当に大変でしたけど、川崎と陸前高田の人が一緒となって作ったイベントだったので、今となってはとてもいい思い出です。

──それにしても、フットサル場の運営やグッズショップの店長という仕事であれば、まだ「サッカークラブの仕事」としてイメージできたと思うんですよ。けれどもサッカーとは直接関係ないイベントの企画とか、ホームタウンからうんと離れた陸前高田での復興支援とか、なかなか理解が追いつかなかったのではないかと思うのですが。

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