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【無料公開】ガンバでもセレッソでもない「第3のJクラブ」? FC大阪の立ち位置を30代社長が語る<1/2>

バンディの守護神だった2007年地域決勝

──ここからFC大阪の話からいったん離れまして、近藤さんご自身のキャリアについて振り返ってみたいと思います。今でこそ流暢な関西弁でお話されていますが、実は出身は北海道なんですね?

近藤 はい、札幌市です。高校は北海道文教大学明清高校といって、今は名前が変わってしまったようですが(編集部註:現・北海道文教大学付属高校)、全国大会に出場するようなレベルではなかったです。僕はGKだったんですけど、そこで国体の北海道選抜に選ばれたんですが、その時にザスパ草津(現・ザスパクサツ群馬)のスカウトに気に入っていただいて、練習参加させていただくことになりました。

──ちょうどJ2に昇格した2005年にザスパに入団するわけですが、所属していた2シーズンは残念ながら出番はありませんでした。

近藤 そうでしたね。タイミングとしては、草津から前橋に拠点が移動して、まだまだ地域に根ざす以前での入団でしたので、その意味でもいろいろな経験をさせてもらいました。今はこうしてクラブ経営をやらせていただいていますが、プロ2年目に契約を切られたことも含めて、この立場になって理解できることもたくさんあります。もちろん、結果論ですけど(苦笑)。

──そして2007年、近藤さんは関西リーグ1部のバンディオンセ神戸に移籍します。のちにバンディオンセ加古川となり、今はCento Cuore HARIMAですが、今度もまた経営的に厳しい環境でプレーすることになったわけですね?

近藤 そうです。加古川に移転する前の2007年は、まだ経営的にも余裕があって、僕みたいな元Jリーガーをたくさん補強していた時でしたね。その年の関西リーグでは優勝して、地域決勝でも決勝ラウンドに進出しました。

──熊谷での決勝ラウンドですよね? よく覚えています。バンディオンセのほかに、ファジアーノ岡山、ニューウェーブ(現・ギラヴァンツ)北九州、そしてMi-Oびわこ草津(現・MIOびわこ滋賀)が進出しました。

近藤 そうです、そうです! 初戦のびわこ戦は11からPK戦になってウチが勝利。ファジアーノとの2戦目も00からPK戦勝利だったんですが、僕はこの試合で相手選手に思い切り目の近くを削られてしまったんですよね。いったんは包帯をぐるぐる巻きにしてピッチに戻ったんですけど、遠近感がまったくつかめなかったので交代しました。

──今、思い出しました。バンディオンセは2戦目を終えた時点でグループ2位。JFLに昇格まで、あと一歩という状況だったんですよね。ところが第3戦のニューウェーブ戦に02で敗れてしまって、結局4位で大会を終えることになります。

近藤 当時のバンディオンセって、選手の平均年齢が高めだったんですよね。ひとりひとりの技術と経験はあったんですけれど、あの時はまだ決勝ラウンドも3日連続でやっていましたから、最後は完全に足が止まってしまいました

──当時のバンディオンセの状況については、当事者の方々に話を聞いています(参照)。結局、ホームタウンを加古川に移転せざるを得ない状況になって、プロ契約選手を抱えきれなくなったと聞いていますが。

近藤 そうです。2007年には絶対に昇格するつもりで資金を集めたんですけど、そのプランが崩れてしまって経営難になってしまったんですよね。僕自身、プロ契約でなくなることを伝えられて、それで2008年(シーズン終了後)にバンディを離れることになりました。

──これは本当に「たられば」の話ですけど、もしも2007年の地域決勝でバンディが昇格していたら、どうなっていたでしょうね?

近藤 たぶんJFLに昇格しても経営的に難しかったと思います。遠征費も人件費も、地域リーグとJFLとでは桁が違いますからね。今、こういう立場になってみて、それはつくづく感じます。

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