【無料公開】ガンバでもセレッソでもない「第3のJクラブ」? FC大阪の立ち位置を30代社長が語る<2/2>
<2/2>目次
*もしもヴェルディの練習生になっていたら
*知られざる大阪府との包括連携協定締結
*「ラグビーとの共存」をどう考えるのか?
■もしもヴェルディの練習生になっていたら
──J2のザスパ草津で2年、関西1部のバンディオンセでも2年プレーして、2009年から近藤さんは現在のFC大阪に加入するわけですけれど、この時は大阪府リーグの1部だったんですよね。きっかけは何だったのでしょうか?
近藤 当時、Jリーグキャリアサポートセンターという、Jリーガーのセカンドキャリアを斡旋する組織があったんですが、そこで紹介していただいたのがFC大阪を運営していた当時の親会社の広告代理店だったんです。
──ということは当時、サッカーから足を洗うことを考えていたわけですか?
近藤 そうです。キャリアサポートセンターにも「もうサッカーはやりません」って伝えてあったんですけれど、親会社の面接を受けたら「君、サッカーやるんだろ?」って言われてしまいまして。ちょうどチームを強くするために、元Jリーガーを何人も入れていた時なんですけど、GKができる人がいなかったこともあって、それでもう少し引退を延ばすことになりました。
──府リーグ時代、どういう練習環境だったのでしょうか?
近藤 それこそ近所の公園とかでやっていましたよ。当然、土でした。とはいえ僕自身、プロ契約へのこだわりがありましたので、仕事をしながらサッカーをするという事に少し抵抗があったので、サッカーを続けようとは思っていませんでした。ですので(2011年に)ガイナーレ鳥取から太田弦貴というGKが入団してからは、少しずつフェードアウトしていきました。
──なるほど。いちおう2013年までは選手登録していたと思うんですが、実際には仕事に軸足を置いていたということですか?
近藤 そうですね。当時の親会社での主な事業はセールスプロモーションで、大手携帯電話のショップのイベント業務をメインでやっていました。その間、試合は出ていませんでしたけれど、サッカーは引退するまで楽しんでいたんです。実は僕、ザスパで契約満了となった年、東京ヴェルディから声がかかって練習参加していたんです。契約がまとまりそうになったんですけれど、最後のメディカルチェックの時に手首が骨折していることがわかって……。
──え……。自覚症状はなかったんですか?
近藤 痛かったですけど、まさか折れているとは思わなかったんです。正確にいうと舟状骨といって、親指の付け根の骨が折れていたんですね。手術をしないと完治しないんです。それにヴェルディの場合、契約といっても練習生からスタートという条件だったので、それだったら試合にも出られて給料もまあまあ良かった、バンディに決めたという経緯もありました。
──もしもヴェルディに移籍していたら、かなり違った人生だったと考えたりします?
近藤 まったく違っていたと思いますよ。そんなに早く現役時代に見切りをつけることもなかったでしょうし、もしかしたらビッグチャンスをつかんでいたかもしれない。ただ、本当に現役にこだわるんだったら、もっと早い段階でやるべきことがあったとも思います。ですから「なるべくしてなった」とも言えるでしょうね。逆に現役にこだわらなかったから、30代でクラブ社長をやらせていただいているわけですが(笑)。今となっては、この仕事にものすごくやりがいを感じています。
──FC大阪は2014年の地域決勝で、奈良クラブと共にJFL昇格を果たしています。すでに現役は引退されていたわけですが、その瞬間は現場にいらしたんでしょうか?
近藤 現場には行っていないですね。その時は仕事が忙しくなっていたので、ほとんど試合を観ることもなかったです。