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【無料公開】ガンバでもセレッソでもない「第3のJクラブ」? FC大阪の立ち位置を30代社長が語る<1/2>

急逝した疋田晴巳前社長から引き継いだもの

──近藤さんは昨年2月、疋田前社長の急逝を受けて、34歳の若さで新社長に就任されました。疋田さんには2年前にインタビューしていたので、私自身も非常にショックだったんですけれど、突然だったのでしょうか?

近藤 2月10日に亡くなったんですが、本当に突然だったんですよ。1月30日に練習試合があって、ものすごく寒い日だったんですけれど、疋田前社長が「体調が悪い。コロナちゃうかな」とか冗談交じりに言っていたんです。その次の日から、会社を休まれたんですね。最近はリモートワークが一般化しましたが、前社長は必ず会社に顔を出す人だったので「よっぽど悪いんだろうな」って思って。

──どういった症状だったんでしょうか?

近藤 「喉が痛い」っておっしゃっていましたね。最初は扁桃炎か何かだと思っていたようです。そうしたら救急車で運ばれて、診断結果は急性劇症肝炎でした。入院中もコロナ対策でお見舞いに行けなくて、それから1週間経った時、商談中に電話が入って亡くなられたことを知りました。

──亡くなられたのが2月10日、去年のJFL開幕が3月14日でした。葬儀も大変でしたが、シーズン開幕直前というタイミングで次の社長をどうするのかという、こちらも大変な問題だったと思いますが。

近藤 まあ、大変といえば大変だったんですけど、実は疋田前社長からは「次(の社長)はお前に頼むからな」ということは生前から言われていたんです。とてもこのクラブを愛しておられましたし、責任感の強い人でもありましたので、いずれは次世代のリーダーに引き継ごうというお考えはあったと思います。ですから僕自身、社長としての力量があるかどうかは別として「やるしかない」という覚悟は、ある程度はできていました。

──疋田前社長がFC大阪に残したものというのは、たくさんあると思うんです。ホームタウンを東大阪市に定めたこと、花園ラグビー場を含む公園の指定管理、そしてJ3ライセンス。それらを引き継ぐというのは、これはこれでプレッシャーがあったかと思いますが、いかがでしょうか?

近藤 おっしゃるとおりです。東大阪がホームタウンに決まったのが2018年で、翌19年から東大阪での活動が始まり、20年にはJ3ライセンスが交付されました。1年1年で何かしらのステップアップをしていく中、2020年のシーズンは「勝てば昇格」という最終節に勝利できず、非常に悔しい思いをすることとなりました。しかも結果として、疋田前社長にJリーグの風景を見せることができなかったのは、われわれにとって大きな心残りになったのも事実です。

──お察しします。

近藤 こういう言い方は好きではないですが、本当にFC大阪が大好きな方でしたので、結果として「夢半ば」ということになってしまいました。ホームタウンやライセンスもそうですが、経営面でも運営面でもようやくプロクラブらしくなりつつあるタイミングだったんですよ。あとは成績面をクリアすれば、次のシーズンにはJリーグの風景が見えてくる。まさに、そのタイミングで亡くなられたんですよね。ですので、その夢を僕らは、是が非でも実現していかなければならないと思っています。

──なるほど、そういう思いもあったからこそ「何としてでもJ3に昇格する」というのが、クラブにとっての最重要課題であるわけですね。

近藤 疋田前社長が見たかった風景というものは、もちろんわれわれにとっての夢でもあります。前社長時代から、われわれも実務ベースで関わっていたので、社長が代わってもそれほど大きく困ることはないと思っています。ただし、前社長がずっと抱いていた熱い思いというものは、われわれもしっかり受け継いでいかなければなりません。その延長線上に、Jリーグの風景が広がっているのだと思っています。

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