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【無料公開】イビチャ・オシム追悼企画 写真で振り返る2015年のボスニア取材

結局、スタジアムからご夫妻がよく利用するレストランへと移動。いきなりの展開でこちらもかなりドギマギしていたが、この状況を和らげてくれたのが、私が用意していたプレゼントである。国連に務める友人たちがセルビア語に翻訳してくれた、私の最初の著書『幻のサッカー王国』。オシムさんに献本した日本人ジャーナリストは何人もいるだろうが、これほど著者の前でじっくり読んでくれたことは決して多くないと思う。

インタビューの時間は、雑談を含めて1時間15分ほど。当初、予想していたとおり現日本代表監督に関する質問は、見事にかわされた。それでも、サッカーが民族融和に果たす役割、自身が日本代表監督だった時に考えていた強化プラン、そして最近のFIFAの問題についても実に興味深いコメントを寄せてくれた。インタビュー後には、ラキヤで乾杯して、しばし会食。まさに夢のようなひとときであった。

オシムさんのインタビューを無事に終えて、とても気分よく迎えた21日の朝。サラエボに最近できた高層ビル『アヴェズ・ツイスト・タワー』の高速エレベーターに乗って、35階からサラエボの街を俯瞰する。こんな絶景を、わずか数分で手に入れられることに、あらためて戦後20年の時の移ろいを感じる。

その後、オトカ・スタジアムに移動。18日からスタートしたバルカンのユース大会も、この日の3位決定戦と決勝を残すのみとなった。決勝はスロベニアのマリボルとボスニアのジェレズニチャル。育成年代とはいえ、球際の強さとえげつなさは「さすがにバルカン」といったところ。17歳といえば高校2年生だが、たっぷりとあごひげを蓄えた選手や190センチ近い選手も普通にいる。試合は、後半早々のゴールを守り切ったジェレズニチャルが1−0で勝利した。

決勝戦が行われている間に、オシム夫妻がスタジアムに登場。優勝したジェレズニチャルのキャプテンに、御大から優勝トロフィーが手渡される。ジェレズニチャルは、オシムさんがプレーヤーとして、そして監督として活躍した思い入れのあるチーム。それだけに、後輩にトロフィーを授与したときの感慨はひとしおであろう。

とはいえ、プレゼンターであるオシムさんにしてみれば、故郷のサラエボに旧ユーゴスラビアを形成していた諸民族のクラブが集ったことを、まずはうれしく思っていたに違いない。最後は全員で記念撮影。この大会、今後もぜひ続けていってほしい。そしてオシムさんも、どうかお元気で!

サラエボでの取材は、これでほぼコンプリート。ちょっと時間ができたので、タクシードライバーにお願いして、セルビア人共和国の首都だったパレに行ってもらう。サラエボには、今回で4回目の来訪であったが、パレについては初めてバルカンを旅した97年以来、一度として足を踏み入れたことはなかった。

18年前、パレに滞在したのはわずか1時間半くらいだったと記憶する。しかし、モスレム人からセルビア人の居住区を越えて、いきなりラテン文字からキリル文字に変わったときの不安と戸惑いといったらなかった。ベオグラードに向かうバスを待つ間、コーヒーを飲んだカフェを発見。オーナーも内装もすっかり変わっていた。

22日にサラエボからヘルツェゴビナ地方最大の都市であるモスタルに移動。モスタルといえば、ボスニア初のユネスコ世界遺産に指定された、スタリ・モスト(古い橋)が有名である。1567年にトルコの建築家によって完成したとされる橋は、先のボスニア紛争の際(93年)にクロアチア系の民兵に破壊され、04年になってようやく修復された歴史を持つ。街の至るところで「1993年を忘れるな!」というメッセージを見かけた。

モスタルを訪れたのはもちろん、当地におけるヴァハの足跡を確認するためである。ヴァハは1971年から81年までベレジュに所属(途中、ネレトヴァというクロアチアのクラブで1シーズン貸し出される)。207試合に出場して103ゴールを挙げている。当時を知るスタッフは「とにかく闘争心あふれるFWだった」と回想する。

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