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【無料記事】なぜ2002年は「理念なき大会」となったのか 20年後に明かされる「日韓共催決定」の舞台裏<2/2>

提供:広瀬一郎氏

「ルールは戦略に沿って変更するもの」

――その頃、広瀬さんは(FIFA本部がある)チューリッヒではなく、日本で結果を待っていたわけですが、雲行きが怪しいという情報も入っていたのでしょうか?

広瀬 共催が発表されるその日の朝に、外務省から僕のところに「共催という情報が入っていますが本当ですか?」っていう連絡が入った。僕はその時、きっぱり言ったの。「FIFAの規定に『共同開催』はありません。われわれも共催の可能性は耳にしていますが、仮にそうなったとしても、すぐには決まりませんよ」って。なぜなら、共催にするんだったら規約を改正しなければならないわけだから。

――普通に考えたら、そうなりますよね。

広瀬 でも連中は、そうではなかった。ルールは従うものではなくて、戦略に沿って変更するものなんだよ。それって、日本人にはまったく理解できない発想だよね。僕は今でこそ「日本人には戦略の発想がない」とか言っているけれど、実はあの時に学んだことなんだよ。「ルールとか規約とか憲法を守るために、われわれは生まれてきたわけではない。それを変えるのも、実は選択肢のひとつだ」っていうのが、連中のルールに対する考え方なんだよ。なるほど、と思ったよね。

――広瀬さんが「これはおかしいぞ」と思い始めたのは、どのタイミングだったんですか?

広瀬 今から考えると、その4日ぐらい前からチューリッヒ組と連絡が一切取れなくなったんだよね。チューリッヒ組は28日に(共催となることを)知っていた。長沼さん(健=当時JFA会長。故人)、あるいは岡野さんが、当時アベランジェの腹心だった(ゼップ・)ブラッターに呼ばれたのが28日。そこでブラッターから「もし共催となったら日本は受けるか」と聞かれた。それでチューリッヒ組は「これはまずいことになった」と。

――岡野さんは宮沢さんに相談したんですよね。

広瀬 そう、それで宮沢さんは「(共催の是非は)われわれが決めることではない。その後の歴史が決めることだよ」って言ったんだよね。そこはやっぱり政治家だよね。もしサッカー関係者ばかりだったら、「話が違うじゃないか、そんな提案、蹴っちゃえ」みたいな感じになっていたかもしれない。

――どう転んでも、日本の単独開催の可能性はなかったんでしょうか。

広瀬 あったよ。アベランジェの辞任。アベランジェが自分の首と引き換えに「日本での単独開催にしてくれ」って言ったら、UEFAもそれを受け入れていたと思う。なぜアベランジェがそうしなかったのか、そこだけは今でも許せないね。だって、われわれは(招致活動に)90億円を使ったんだぜ。最初から共催だって決まっていたなら、10億円で済んでいた。ふざけんなって話だよ!

――そして5月31日、最終的な投票を待たずに日韓共催が発表されることになります。私もあの時、TV中継を見ていましたが、広瀬さんはどうされていました?

広瀬 まったく覚えてない。だって、発表は翌日(6月1日)だと思っていたから。

――決定を知って、当然、慌てましたよね。

広瀬 そりゃそうだよ。だって次の日に、イベントをやるために国立競技場を押さえていんだから。日本開催だったら実施するし、韓国開催だったら中止。だけど共催の場合どうするかなんて、決めてなかったからね。結局、イベントは取りやめになったんだけど、当日の朝になってイベントの仕切り担当から「広瀬さん、国立に来てください。朝から若いやつがたくさん集まってきているんです」って電話があったんだ。興奮したやつらが何かしたらまずいと思って、それでタクシーを飛ばしたら、確かに若いやつらがたくさんいるんだよね。

――で、どうなりました?

広瀬 それがお笑いでさ、野球の早慶戦に並んでいる学生だったんだよ(笑)。

――そういうオチですか(笑)!

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