宇都宮徹壱ウェブマガジン

【無料記事】なぜ2002年は「理念なき大会」となったのか 20年後に明かされる「日韓共催決定」の舞台裏<1/2>

 いったいどうしたことだろう。今年はスポーツの残念な話題が本当に多い。大相撲での「女性は土俵に入らないで」問題。女子レスリングのパワハラ問題。そして日大アメフト部の危険タックル問題。さらに、ボクシングにバスケットボールと続いて、今度は体操ときた。これらはいずれも2018年の出来事。東京五輪とパラリンピックを2年後に控えた今、なぜこうした問題が次から次へと明るみに出るのだろうか。

 五輪でもなければ、アマチュアスポーツを取り上げることのないワイドショーが、ここぞとばかりに不祥事を取り上げるたびに「広瀬一郎さんが生きていれば」と思ってしまう。生前、主張し続けてきた「スポーツマンシップ」の大切さもさることながら、問題の本質を客体化してわかりやすく伝えることに関しては(ことスポーツ界では)広瀬さんの右に出るものはなかった。広瀬さんが生きていれば、これら不祥事がゴシップとして消費されるのではなく、むしろ日本のスポーツのあり方についての建設的な議論に転じることも可能だったかもしれない。

 さて、今週は過去のアーカイブ記事の中から、16年6月に掲載した広瀬さんへのインタビュー、『なぜ2002年は「理念なき大会」となったのか 20年後に明かされる「日韓共催決定」の舞台裏』を無料公開とする。2002年のワールドカップが日韓共催で行われることが決まったのが、1996年5月31日。日韓両国の熾烈な招致合戦は、誰もが予想しなかった「共催」に決まり、日本の招致活動に関わった関係者の多くが落胆した。

 当時、電通から招致委員会に出向中だった広瀬さんは、「日本開催」の可能性をギリギリまで追求していた。それだけに「あの日をもって、僕の人生は激変した」という言葉には、ずっしりとした重みが感じられる。それからちょうど20年という節目のタイミングで、2年前に広瀬さんにインタビューさせていただいたのが本稿である。ただし、単なる暴露話ではない。「理念なき大会」となった2002年の教訓が活かせなかったら、2020年の東京オリパラも「結局また同じことを繰り返す」と広瀬さんは喝破している。

 広瀬さんには、これまで何度もインタビュー取材をさせていただいたが、結局これが最後となってしまった。あらためて読み返すと、何やら広瀬さんの「遺言」を託されたような厳粛な気分になる。最近の2020年に関する報道を見ていると、猛暑対策ひとつとっても、やれ打ち水だ、やれサマータイム導入だと迷走感この上ない。なぜ、このような事態に至ってしまったのか。広瀬さんが残した言葉の数々から、あらためて考察する機会となれば幸いである。(取材日:2016年5月16日@東京)

なぜ日本はレガシーを残せなかったのか?

――今日はよろしくお願いします。20年前のお話を伺う前に、2020年の話を伺いたいと思います。つい先日も、招致活動での不正支払い疑惑が海外メディアで報じられて日本に飛び火しています。広瀬さんのところにも、メディアからの出演依頼があったと思いますが。

広瀬 あったね。明日(5月17日)、テレ朝の『ワイド!スクランブル』に出る。最近、東京五輪のことについていろいろ話す機会があるけれど、新国立競技場の問題にしても、エンブレムの問題にしても、実は結果論でしかないんだよね。因果関係の「因」っていうのは、共通した構造的なものがあるんじゃないかと僕は思っているわけ。それは何かと言うと「どうしたいか」。コピーライティング定義に言うと「ビジョン」あるいは「理念」なんですよ。たとえば招致活動の時のエンブレムがあったよね。

――花輪のデザインですよね。「いっそ、あれを大会エンブレムにすればいいんじゃないか」という意見もけっこうありましたが(参照)

広瀬 だけど、それは使わないってことになっていたでしょ。それはなぜかというと、招致の時の理念と、大会を開催する時の理念は変えますよ、ということだから。理念を象徴するのがエンブレムであるわけで、開催が決定してエンブレムを作り直すということは、もう一度「東京五輪の理念」というものを実践的なものにするために精査します、ということだと僕は思うんだ。でも、その理念というものが決まらないままデザイナーに作らせてしまうと、変な話になってしまうわけ。それと同様に2002年のワールドカップというのも、実は理念のない大会だったんだよね。

――招致活動の時は「ファースト・イン・アジア」というキャッチフレーズがありましたが、あれは理念ではなかったんですか?

広瀬 それは招致する時の理念。ところが、2002年の開催が決まった瞬間に理念を作り忘れてしまった。それは少し同情すべき点もあって、招致活動の時はA(日本開催)かB(韓国開催)かという2つの結果しか想定していなかった。ところがC(日韓共同開催)という想定外の結果になってしまった。

 あの「ファースト・イン・アジア」というのは、「アジアで初めて」というのと「アジアでナンバーワン」というダブル・ミーニングだったわけだけど、共同開催が決まった時に「ファースト・イン・アジア」のままでいくのか、それを捨てて新たな理念を模索すべきか、そういう選択を結果としていなかった。その結果、欧州一極集中という世界のサッカーの構図において、アジアは「育成の場」という地位に甘んじるしかなくなってしまったんだよね。

――あるいは欧州サッカーの「金づる」ですかね。

広瀬 だね。でも、そもそもあの招致活動は、日本にとって非常に画期的なことだったわけ。五輪と違って、ワールドカップというものはJFAと10の開催自治体──当初は16だったんだけど、その17の組織が自主的に手を挙げて、それを国家が追認したと。この流れというのは非常に21世紀的だったよね。

 この流れをどう未来に活かすべきだったか。あるいはワールドカップ開催を契機に「じゃあ、日本だけでなくてアジアのサッカーのことも考えていこうよ」という次のアクションもあったかもしれない。そうした、いろいろなチャンスがあったにもかかわらず、理念がなかったがために2002年は単なるお祭りで終わってしまったわけさ。記憶は残ったけれど、レガシーは何も残らなかったと言っていい。

――2002年とよく比較されるのが、その4年後のドイツ大会です。ドイツはあの大会を契機に、すべてのスタジアムが新設、もしくは改修されたことで劇的に観戦環境が改善され、その後のブンデスリーガの観客数は飛躍的に伸びました。こうしたレガシーを生み出したことができたのも、やはり理念があったからでしょうか。

広瀬 より正確に言うと、戦略だね。ドイツは大会後の戦略というものがあって、ブンデスリーガが盛り上がったし、8年後にはワールドカップで優勝することができた。それは施設の話だけではなく、競技とビジネスの両方がいいスパイラルを生み出せたということなんです。客が増えました、それでお金が入りました、だから人件費を上げても大丈夫です、良いタレントが買えました、リーグのレベルもまた上がりました、というスパイラル。これは構造的なものだから、レガシーと呼べるわけ。

――でも、われわれは記憶しか残せなかったと。

広瀬 そう、レガシーと記憶はぜんぜん違う。資産になっていない。で、日本は2020年でそれを繰り返そうとしているわけ。現状だと、間違いなく繰り返すんだよ。で、何も残らない。成果の定義をせず、検証もできないってことは、レガシーにならない。つまり、資産として残らないってことなの。記憶にしかならないんだよ。

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