宇都宮徹壱ウェブマガジン

徹一から徹壱へ──徹マガ版『私の履歴書』 第12回 スポーツナビとの出会い(2000~02年)

ごくごく凡庸な高校生であった宇都宮徹一が、どのような経緯を経て現在の「宇都宮徹壱」となったかを振り返る当連載。最終回となる今回は、私の書き手としての主戦場となるスポーツナビとの出会いから、2002年のワールドカップ取材へとつながるストーリーを披露することにしたい。大学受験、就職、転職、そして「写真家宣言」と続いた波乱万丈(あるいは紆余曲折)の物語が、どのようにして今の私につながっていくのか。何ら教訓めいた話もないままにフィナーレを迎えるが、最後までお付き合いいただければ幸いである。


結婚披露宴パーティーで配布した手作りのプログラム。イラストはカミさん、写真は私の作品を使用した。

■「わらしべ長者みたいになればいいねえ」

新しいミレニアムを迎えた2000年(平成12年)。私の窮乏生活は相変わらず続いていた。住まいは西荻窪の風呂無しアパート(有り難いことに家賃は5万5000円のまま、ずっと据え置かれていた)。書籍の印税は多少入ってはきたものの、もちろんそれだけでは暮らしていけないので、さまざまなアルバイトを掛け持ちしながら糊口をしのいでいた。ただしこの頃には、ようやく撮影や編集の仕事もぽつぽつと入るようになっていた。特に頑張ったのが、日本サッカー協会が毎年発行していた『JFA 少年サッカー手帳』の編集作業。これは、全国の第4種(小学生年代)の会員に送られる手帳なのだが、代理店経由で協会の仕事をさせていただいているのは、ちょっとばかり誇らしく感じた。

運命の歯車が動き始めた日のことは、今でもよく覚えている。1月8日、国立競技場で高校サッカー選手権の決勝が行われた時のことだ(カードは市立船橋対鹿児島実業。前者には原竜太や羽田憲司、後者には松井大輔や那須大亮がいた)。たまたまサッカー手帳の仕事の関係で、協会の事業部の人から決勝のチケットを4枚いただいていたので、のちに結婚することになるカミさんを誘った。余った2枚のチケットを誰かにプレゼントしようと思い、千駄ヶ谷門の行列に知った顔はいないものかと眺めていたら「おーい、宇都宮くーん!」とお声がかかる。声の主は、当時電通にお勤めだった広瀬一郎さん。広瀬さんとは、サッカー好きが集まる勉強会『サロン2002』(のちにNPO法人化)で何度かお会いする機会があった。

チケットがないという広瀬さんに、とりあえず余ったチケットを譲ると「おお、グラッチェ、グラッチェ」となぜかイタリア語でお礼を言われた。そしていったんは行列に戻ろうとした広瀬さん、何かを思い出したかのように振り返って「そうだ。今度、新しい事業を立ち上げるかもしれないんだけど、ブレストに参加してくれない? また連絡するよ」。その様子を見ていたカミさんが「わらしべ長者みたいになればいいねえ」と言ったことを今でも鮮明に覚えている(わらしべ長者とは、ある貧乏人がワラから物々交換を始めて、やがては大金持ちになるという童話である)。

広瀬さんが語っていた「新しい事業」というのは、スポーツ専門のポータルサイトを日本に立ち上げる、というものであった。当時の私には何とも雲をつかむような話であったが、2000年当時、わが国でも明らかにインターネットによる情報発信が一般に浸透しつつあった。この年のインターネット年表をひもとくと、日本のインターネット人口が1937万7000人となり(2月)、Yahoo! JAPANが1億ページビューを達成し(7月)、NHKがニュースのインターネット配信を開始している(12月)。広瀬さんの「新しい事業」は、電通と三菱商事が出資した新会社、スポーツ・ナビゲーションとして結実。私に声をかけてくれた広瀬さんは、電通を退社して同社のCOOに就任した。

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