宇都宮徹壱ウェブマガジン

ヤドランカさんの死と五輪招致の買収疑惑 千田善のフットボールクリップ

 徹マガ読者のみなさん、ごきげんよう!

 4月に久しぶりにボスニアに行って来たので、その話を書こうと思っていたら、またニュースが飛び込んできました。「2020年東京五輪招致委の2億円余の買収工作」疑惑です。すでにフランス検察当局が送金の証拠などをおさえているようなので、連載の後半で概略をまとめておきます。

■旧ユーゴ諸国で報じられたヤドランカさんの死

 さて、ぼくにとっては悲しいことがありました。友人のヤドランカ・ストヤコビッチさんが5月4日未明に亡くなりました。1950年7月生まれなので満65歳。早すぎる死です。ALS(筋萎縮性側索硬化症)という、身体の自由が次第にきかなくなっていく難病(治療法が確立されていない)でした。

 ヤドランカさんはサラエボ生まれのシンガーソングライターであり、画家でもありました。旧ユーゴスラビアでは知らないもののない存在でしたが、1980年代末から日本を拠点に活動。そのうちにボスニアで戦争がはじまって帰国できなくなり、結局2011年春まで20年あまり日本で暮らすことになりました。

 日本では、さまざまなアルバムやコンサート活動のほか、NHK『みんなのうた』での『誰かがサズを弾いていた』、テレビゲームの『幻想水滸伝』のテーマ曲『予感』『ヴァンダルハーツ(悲しみを燃やして)』などでご存じの方もいらっしゃるでしょう。

 ヤドランカさん死去のニュースは、地元ボスニアだけでなく、北はスロベニアから南はマケドニアまで、旧ユーゴスラビアの各国で報道されました。芸術性の高さ、人柄の優しさなどから、民族や国境を越えた人気があったことがあらためてわかります。

 個人的には、30数年前、ヤドランカさんが日本のイベントに招かれた際に出演交渉をしたので、ひとしお思い入れの深いアーティストでした。数かずの音楽賞を受賞、サラエボ冬季五輪のテーマ曲を歌うなど、ユーゴスラビアを代表する歌手でした。のちに友人として付き合うようになり、サラエボのアパートで描きかけの油彩を見せてもらったりしたものです(アパートは戦争中に別の避難民が占有していて帰れなくなった)。

 一度、ギター弾き語りのスタイルから「ユーゴのジョーン・バエズ」という表現を使ったら「私のことをなんにもわかってないのね」と笑われたことがあります。ヤドランカの音楽の原点は、18歳で参加した叔父のジャズバンド。オトナのグループの紅一点としてヨーロッパ中を演奏旅行して回ったのがはじまりです。

 そんな暮らしを数年続けたあとでサラエボに戻り、サラエボ大学美術アカデミーに入学しなおし、音楽と美術の二足のわらじならぬ二足のブーツを履くことに。音楽的には、ジャズ、ポップ、フォーク、バルカンの伝統音楽など多彩。それに絵画という表現形式を加えて、自由に表現を追求する才女でした。

 日本でのファーストアルバム、じつはぼくが訳詞した曲がいくつかあります。『私は信じる(英語なら「I believe」)』というタイトルを「信頼」と訳したら『信じているの』と、明らかにヤドランカのイメージと違う、なよなよしたニュアンスの日本語に勝手に変えられてしまいました。しかも、ぼくの名前は「レコード」(当時はLP盤です)ジャケットのどこにも書いてない。「なんだよ、東芝EMI。ひどいじゃないか!」と憤慨したことも懐かしい思い出です。

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