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中野吉之伴フッスバルラボ

【現地取材】小野伸二物語番外編。小野がチームを支え、チームが小野を支えようとしていたボーフム時代を覚えているか

▼ 特別な選手だった小野伸二

稀代のサッカープレーヤー小野伸二がプロサッカーの世界から引退した。

日本サッカーの歴史の中で彼ほど「ケガさえなければ...」と思われた選手はいないのではないだろうか。それほど彼のプレーは見るものすべてを魅了していた。小野の魔法に魅了されたのは日本のサッカーファンだけではない。

海外のサッカーファンもそのプレーぶりにほれぼれとし、比類なきマジックタッチに酔いしれたものだ。2001-02シーズンにフェイエノールトへ移籍を果たすと、すぐにレギュラーポジションを獲得。同シーズンにはUEFAカップ決勝でドルトムントを破り、見事初タイトルを獲得した。デンマーク代表トマソン、オランダ代表ファンホーイドンクとのトリオは破壊力抜群だった。そういえば若き日のロビン・ファンペルシーもいた。

小野が振るうタスクは本当に素晴らしかった。リズムカルにどんどん攻撃が躍動していく。

余談だが、このシーズンのUEFAカップでフェイエノールトはフライブルクと対戦している。僕はフライブルクホームの試合を観戦していた。いまもその時のチケットは残っているかもしれない。

当時僕はドイツにきて一年目。楽しいこともたくさんあったけど、苦しいことだってたくさんあった。初めてのドイツでの冬に心の活動領域がきゅっと狭くなった日々を思い出す。

軽やかなプレーでフライブルク守備を翻弄する小野の姿に少なくはない勇気をもらったものだ。日本人選手がこのピッチに立っていることのすごさを間近で感じさせてもらえたのだから。

僕が希望の光を勝手に見出していたわけだけど、小野自身は1999年に負った膝の負傷からの影響と向き合い続けていた。外からはわからないことがたくさんあるのだろう。でもそんなそぶりも見せずに、サッカーの楽しさを感じさせてくれていた。

06年に浦和レッズへ復帰。ドイツワールドカップでは《黄金の中盤》と言われながら、スタメン出場はできず、初戦のオーストラリア戦で途中出場したのみ。レッズでも完全レギュラーという起用法はされず、戦術によってはベンチを温めることもなくはなかった。

▼ ブンデスに小野がやってきた

そんな小野が08年1月、ボーフムへの移籍を決めた。

ボーフムという世間的には名が知れたクラブではなかったこともあって、小野がブンデスリーガでプレーしていたことを覚えている人は多くはないかもしれない。

戦績で見ると、2年間で29試合出場し無得点。デビュー戦のブレーメンとの試合では途中出場ながら2アシストをマークし、鮮烈なデビューを飾ったが、その後怪我の影響でなかなかコンスタントに出場できないでいた。

出場すればボランチやトップ下でキーとなるプレーを見せていたが、10年1月に清水エスパレスへ移籍。2年でドイツを去ることになった。大活躍、とは言えないかもしれない。大きな置き土産をした、わけでもないかもしれない。

クラブからの期待は極めて大きかった。それこそ《日本のベッカム》という見出しで地元メディアが何度も取り上げ、小野人気を利用して日本へのマネージメントを拡大できるかをクラブは本気で考えていたのだ。

実際にボーフムでサイン会を開催すれば、ボーフムのTシャツ、マフラー、マグカップの入った”ファンセット”が見事に完売。当時チームマネージャーを務めていたシュテファン・クンツ(前U21ドイツ代表監督/トルコ代表監督)が「我々のような小さなクラブにとって小野を通せることはアジア市場に挑戦する大きなチャンス」と熱を帯びたコメントしていたことを思い出す。実現こそしなかったが、ボーフムの日本ツアーの計画までも口にしていたほど。

とはいえ、マーケティングだけを期待されていたわけではない。プレー面でもそうだ。ボーフム時代も怪我と苦しみながら、それでも小野だったら何とかしてくれるかもしれないという希望を持たせてくれる選手だったし、ボーフムファンもそんな小野のプレーを楽しみにしていたものだ。

小野はほかの選手にはできないプレーをしてくれるというイメージを勝ち取っていた。

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