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今だから語れる「東京2020大会組織委員会の日々」 天野春果(南葛SCプロモーション部部長)<2/3>

川崎フロンターレを離れて「J5クラブ」に来た理由 天野春果(南葛SCプロモーション部部長)<1/3>

組織委員会への「出向」は自分からの志願だった

──天野さんが東京オリパラの組織委員会に出向したのは2017年。川崎が初タイトルとなるJ1優勝を果たした年でしたよね。

天野 そうなんですよ! 2016年までずっと「シルバーコレクター」だったのが、僕がいなくなってから急に、いくつもタイトルを獲得できるようになりましたからね。今でも(大久保)嘉人に会うと、こんな冗談をかわすんですよ。「疫病神だったのは、俺かお前か、それとも(元社長の)武田信平か?」みたいな(笑)。

──さすがに風間さんとは言わないわけですね(笑)?

天野 それは絶対に言わない(笑)。強くて面白いフロンターレの礎を作った人ですからね。

──それで組織委員会への出向ですが、これはご自身の希望だったのでしょうか? というのも天野さんは、アメリカ留学時代にアトランタ五輪(1996年)のボランティアを経験しているじゃないですか。その影響もあったのかなと。

天野 アトランタ五輪の経験はデカかったですね。あの時「もし日本で五輪が開催されたら、絶対に仕事で関わる!」と心に決めましたから。翌年に帰国して、川崎フロンターレに入社するんですが、長野冬季五輪(1998年)の時は、バイアスロン会場の競技役員をやっていたんです。

──え、それは初耳です! 川崎の仕事はどうしたんですか?

天野 当時のフロンターレは有給(休暇)が2週間くらいしかなかったんですけれど、今と違って緩かったので1カ月半くらい休ませてもらって、自衛隊の競技役員の人たちと一緒にペンションで生活していました。自衛隊の人って、相手のことを「貴様」って言うんですよ(笑)。最初に言われたときはドキッとしましたけれど、いい経験をさせてもらいましたね。

──その後、2002年のワールドカップ日韓大会ではJAWOC(日本組織委員会)にも出向されていたそうですね。

天野 そうなんです。僕は1994年のアメリカ大会時は、向こうの大学に行っていた関係で現地観戦しているんです。日本でワールドカップが開催されたら、それも絶対に関わろうと。冬季五輪、ワールドカップ、どちらも夢を叶えることができたました。あとは夏季五輪でも働くことができたら、主要国際大会コンプリートじゃないですか(笑)。ですから、2013年に東京五輪開催が決まった時点で、フロンターレを辞めることを決断していました。

──え? 出向ではなく、川崎を退職して組織委員会に行っていたんですか?

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