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【無料記事】なぜ2002年は「理念なき大会」となったのか 20年後に明かされる「日韓共催決定」の舞台裏<1/2>

アベランジェの戦略に取り込まれた日本

――2002年招致活動に話を戻します。日本の招致委員会が発足したのは1991年の6月ですが、80年代後半から「日本でワールドカップを」という構想はあったようですね。日本の競技力向上のために、国内リーグのプロ化とワールドカップ開催という両輪が必要だと、当時のJFAが考えていたことはよく知られているところです。とはいえ「日本でワールドカップを」という大風呂敷を広げるには、やはりFIFAというか当時の会長のジョアン・アベランジェ(故人)のサジェスチョンがあったと考えるべきなんでしょうか?

広瀬 それはあっただろうね。ただ、国内リーグのプロ化との両輪、というアイデアがアベランジェの発想だったかどうかはわからないんだけど、構図としてはアメリカと非常に似ているよね。94年にワールドカップを開催して、その翌年にMLSが開幕したわけじゃない?

――順序は逆になりましたが、ワールドカップ開催とプロリーグの創設というのがセットになっている意味では、日本とまったく一緒ですね。

広瀬 そこはアベランジェの戦略としてあったと思う。つまり、GDP世界1位のアメリカと、当時2位だった日本をサッカーの世界市場に組み込もうという戦略。アベランジェが、ワールドカップ開催とプロリーグ創設という2つのフレームを与えて、アメリカも日本もそれをクリアすることで、FIFAの市場にしっかり組み込まれることになったと。

――なるほど。いずれにせよ91年に日本の招致活動がスタートするわけですが、その頃、広瀬さんは電通でどんなお仕事をされていたんでしょうか?

広瀬 ゴルフだね。全英オープンとかトヨタのワールドマッチプレーとか。サッカーは90年のワールドカップで卒業した。

――サッカーについては、やりきったという感じでした?

広瀬 やりきったというか、僕はトヨタカップ、キリンカップ、ゼロックス、日本リーグ、全部やってからワールドカップに行ったわけね。だから当時は、サッカーでやることがなかったんだよ。自分としては、それほど達成感はなかったけれど「サッカーはもういいかな」というのはあったし、正直言うと「ぼちぼち電通を辞める時かな」と思っていた。そしたら94年にクアラルンプールで行われたAFC総会で、FIFAの理事に立候補していた村田さん(忠男=当時JFA副会長。故人)が落選しちゃったわけ。

――韓国のチョン・モンジュンがFIFAの副会長になった、あの選挙ですね。広瀬さんは村田さんが、というか日本が厳しいという情報を事前に知っていたんでしょうか?

広瀬 ずっとFIFAと仕事をしていたら、そりゃあ情報ソースは持っているさ。しかも僕が探りを入れなくても、向こうから情報を入れてくれるからね。「ヒロセ、このままだと日本は負けるぞ」みたいな(笑)。彼らからすると、日本に勝ってもらわないと儲からないわけ。「だからボランティアで情報を渡すから、お前からJFAに伝えてくれ」って。

――そこで得た情報というのは、逐一伝えていたんですか?

広瀬 逐一ではないけど、クアラルンプールに関しては村田さんでは勝てないとわかったから「チョン・モンジュンに勝たせないようにするのが次善の策ですよ」と伝えた。伝えた相手は、アジアのスポーツ界に詳しい人だったから「調べてみたら、本当のようだ。広瀬くん、ありがとう」って言ってくれたんだけど。結果として、僕の情報ソースが言っていたとおりのシナリオになってしまったんだよね(苦笑)。

――今さらながらに、93年の「ドーハの悲劇」が悔やまれますね。もし日本がイラクに勝っていたら、韓国のアメリカ行きはなかったわけで、ワールドカップ招致に名乗りを上げることもなかったわけですから。

広瀬 ドーハの話をちょっとだけすると、あの試合のレフェリーはすごく日本に好意的だった。チョン・モンジュンがどれだけお金を使ったかは知らないけれど、日本がワールドカップに出場して2002年の開催国になったほうが、アジア全体が潤うという読みがAFCにはあったはずなんだよね。で、ロスタイムでイラクがコーナーキックのチャンスになったでしょ。あそこで主審は終了のホイッスルを吹くつもりでいたら、ショートコーナーになったんだよね。

――大きく蹴っていれば、そこで「ピー」だったわけですね。

広瀬 あの主審、「オレのせいじゃないよ」って顔をしていたよね(苦笑)。

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