中野吉之伴フッスバルラボ

【追悼】《皇帝》ベッケンバウアーの素顔。母思いで信心深い一人の人間だった

▼ ベッケンバウアーを偲んで

ドイツサッカー史上最高の選手であり、世界サッカーの歴史を変えた偉人の一人でもあるフランツ・ベッケンバウアー。2024年1月7日に享年78歳でこの世を去ったニュースは、瞬く間にドイツ中を駆け巡り、大きなショックに見舞われた。

「誰と比類させることができるのか?」という質問をよく受ける。だがこれに応えるのは極めて難しい。選手として、監督として、ワールドカップ優勝を果たしたのは3人しかいない。

ちなみにあとの2人はマリオ・ザガロ(ブラジル)とディディエ・デシャン(フランス)。

欧州チャンピオンズカップ(欧州チャンピオンズリーグの前身)で3連覇、FIFA世界最優秀選手に4度選出されている。絶大なカリスマ性でバイエルン会長を長年続け、ドイツサッカーにおけるご意見番として君臨。誰もがその声を傾聴する。

1人のスポーツ選手という存在を大きく超え、国全体だけならず、サッカーを通じて世界中の人にもたらした影響を考えると、最高レベルのハリウッドスターさえも超越しているといっても大げさではないと思われる。

「ナポレオン」「始皇帝」「徳川家康」

少なくともドイツにおいてはそうした歴史的な偉人のような立ち位置にあるのではないだろうか。

日本メディアでは元日本代表キャプテンの長谷部誠にもつけられることがあり、いまではすっかりおなじみの感もある《カイザー=皇帝》というニックネーム。

初めてメディアに現れたのは1969年6月。大衆紙ビルトがベッケンバウアーのことを「我が国のカイザー」という見出しをつけて特集を組んだのだ。「我が国の爆撃機」というニックネームで愛された世紀の点取り屋ゲルト・ミュラーとのコンビがあまりにもパーフェクトすぎるということからつけられた名前だったという。

今回はそんなベッケンバウアーの数奇な人生を振り返ってみたいと思う。

05年コンフェデ杯で記者会見に挑むフランツ・ベッケンバウアー

▼ バイエルン移籍となったいきさつ

運命とはどこで決まるのか。何がきっかけとなるかはその時点ではわからないことは少なくない。

ベッケンバウアーはバイエルンで数々のタイトルを獲得することになるわけだが、実は1860ミュンヘンへの移籍がほぼ決まっていたことをご存じだろうか。

現在は3部所属の1860ミュンヘンだが、かつてはバイエルンよりも名門だった。

小学生時代地元クラブ1906ミュンヘンでプレーしていたベッケンバウアーは、そんな1860ミュンヘンからのオファーを受け、移籍確定となっていた。

だが1958年、ある事件が起きた。

1906ミュンヘンU13が1860ミュンヘンとの試合があったのだが、そこで相手選手の一人が試合中に突然殴ってきたという。ベッケンバウアーのすごさにイライラしてしまったのか。試合中で興奮して感情的なやり取りがあったのだろうか。

いずれにしてもこのことが原因でベッケンバウアーは1860ミュンヘンへの断りを入れ、ライバルクラブだったバイエルンへの移籍を決断。後日この事件をこのように述懐している。

「あれを運命というのだろうか。青ではなく、赤のユニフォームを身にまとうことになった。そのあとの歴史から振り返ってみると、当時の対戦相手に感謝の言葉を送らざるをえない」

バイエルンへ移籍したベッケンバウアーは順調に成長し、18歳ですでにトップチームで欠かせない選手となっていた。

バイエルンは1963年ブンデスリーガの創設クラブに入っていない。そんなバイエルンにとってベッケンバウアーとゲルト・ミュラーの二人は新時代への希望の象徴であり、礎を作った存在だった。

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