【はじめに/第一章無料公開】3年間ホケツだった僕がドイツでサッカー指導者になった話②
▼ 新刊の「はじめに」と「第一章」を無料公開!!
書店に並び、ネット注文が動き出して1週間が経ちました。おかげさまで拙著を手に取り、読んでいただけた多くの方からとても好意的な感想が届いています。紀伊国屋書店や三省堂書店で平積みにしていただけているのはありがたいことです。
↑の写真にしても、日本代表の浅野琢磨、三苫薫両選手の著書に挟まれているというのはなかなかにすごいことです。
このジャンルにおける日本代表として頑張っていきたいですね。
「本書では「サッカー」について語られますが、「サッカー」に限った話ではなく野球でもテニスでも、バスケットボールでも、いやはやスポーツのみならずピアノかもしれないし、絵を描くことかもしれないし、なんでもそう! ごく普通の人が日常的に楽しむものであってもいい」(教文館ナルニア国さん @narniastuff)
今回は「第1章」の続きを無料で公開します。読んでみて気になった方は、ぜひぜひ書店などでお手に取ってみてくださいませ!!
「はじめに」はこちらからぜひ
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サッカースクールの参加者は、全部で15人ほど。小学校高学年の子から、高校生の僕まで、年齢層は幅広かった。僕らは成田空港で合流し、飛行機に乗り込んだ。
ドイツまでは約11時間。せまい座席でじっとしてなきゃいけないのは、相当につらい。
何度も座り方や座る位置を替えながら、ちょっとでもくつろげる体勢を探すけど、椅子が硬いからすぐにおしりが痛くなる。消灯時間になっても、僕はどうにも眠れなかった。
どうせ眠れないなら、とドイツのことを妄想してみた。日本ではない、いままで行ったこともない場所で、外国人コーチの指導を受けながら、サッカーをするんだ。
どんなグラウンドなんだろう?
どんな練習をするんだろう?
考えれば考えるほど、なんだか夢のようなイメージが浮かび上がってくる。ふだんの生活では味わったことのない高揚感だ。
結局ほとんど眠れなかったけど、ぜんぜん疲れを感じなかったほどに、僕の心は浮き上がっていた。
美しすぎるグラウンド
期待しすぎると、現実を見てがっかり……なんてことはよくある話。
だけど、飛行機でのワクワクを上回るくらい、ドイツはすごかった。
僕たちが合宿したのは「スポーツシューレ」という施設。フランクフルト空港からはチャーターバスで1時間半ほどの距離にあった。
スポーツシューレは英語にすれば「スポーツスクール」。でも学校というわけではなく、日本の「トレーニングセンター」のほうがイメージに近いかもしれない。
いろんな種目に向けた施設が整っていて、アマチュアクラブから、地区の選抜チーム、オリンピック強化選手まで、様々なレベルのチームや選手が、練習や合宿に活用していた。各スポーツの指導者講習会の会場にもなっているそうだ。こういう施設が、ドイツ各地に50近くもあるという。
このスポーツシューレ、まずグラウンドがすごい。
僕らが練習できるグラウンドは、芝のグラウンド!
緑の芝のグラウンド! それもふかふかの!
高校のサッカー部では、芝のグラウンドでプレーしたことはほとんどなかった。試合会場はどこも土のグラウンド。硬いし、砂利もあるから、スライディングをしたら血まみれになる。ボールはイレギュラーしまくるし、かなり弾むから、ボールをコントロールするのがとにかく難しい。
そして僕はそれが「ふつう」だと思っていた。
それにくらべて、スポーツシューレのグラウンドの美しさといったら。
整備されたグラウンドに立って、ボールを蹴って、走るだけで、今までに感じたことがないほど心地よかった。
僕たち参加者は、美しい芝のグラウンドで、パスやシュートの練習、そしてミニゲームや練習試合をした。
なんだろう、この解放感は。気持ちがスッとほぐれていった。体がすごく軽いって感じた。なんだか、いくらでも走っていられるってくらいに、体が動いてくれるんだ。こんな環境が身近にあるって、なんてすばらしいんだろう。
練習が終わって、芝のグラウンドに立って見上げた空は、どこまでも澄みきっていて、ただただきれいだった。
初めて褒められた左足
「君はいい左足を持っているね」
練習中、僕のプレーをじっと見ていたドイツ人コーチが、何気なくそう言って、褒めてくれた。
「左足のボールタッチがやわらかいから、相手はボールを取りにくいよ」
「スピードもある。左サイドからのドリブルとクロスが武器になるね」
おどろいた。それまで部活では「両足で蹴れないと、レギュラーにはなれない」と言われてきたからだ。それができないと、評価の対象にすらされなかった。
だから新鮮だった。
振り返ってみたら、僕はそれまでサッカー以外でも「君のここが良いね」と評価されたことがほとんどなかった。
中学時代、テストの点が良くて、担任の先生に褒められたことはあった。でもそれは「結果」に対してのもので、僕の持っている特徴や、僕の取り組みに対してのものではなかった。
ずっと「右足の練習をしなきゃ」と思っていた僕に、このコーチは「君には長所があるじゃないか。もっと左足を生かすといい」という見方をしてくれた。
あれ? 今までの悩みって何だったんだ?
それだけじゃない。このコーチからの指導はおどろきの連続だった。
だって、ぜんぜんちがったのだ。それまで教わってきたことと、ドイツで教えてもらっ
たこととが。
「ボールをもらう前にどこをどのように見て、何を考えておくべきか」とか「攻守のバラ
ンス」とか「相手チームがボールを持ったときのポジショニング」とか──。
そのどれもが、高校のサッカー部では教わったことがない、専門的なことだった。
いちばんおどろいたのは、このドイツ人コーチが、ふだんは地元の小さなクラブで指導者をしている人だったことだ。
「プロクラブで指導している育成のエキスパート」とかではなく、ずっと地元で、ボランティアで、子どもたちにサッカーを伝えてきた人だったのだ。
こんなにもサッカーを理解していて、選手にサッカーの喜びを感じさせてくれて、わかりやすい表現で教えられる人が、町のクラブのボランティアコーチだなんて!
本物の天然芝で、すばらしいコーチに指導してもらいながら、練習や練習試合をする。
その感動は、感動なんて言葉じゃ表しきれないほどだった。
ドイツの「当たり前」
「そうは言っても、ここはきっと特別だよな。ドイツの子だって、いつもこんな環境でサッカーできるわけじゃないよな」とも思った。でも、通訳の人にこういう環境がこの国では「当たり前」と聞いたから、さらにおどろいた。
ドイツには、どんな小さな村や町にも、その地域のサッカークラブがあって、その数は約2万5千にものぼるという。そしてほとんどすべてのクラブは、それぞれにグラウンドとクラブハウスをもっているというのだ。
グラウンドは天然芝のものが一面と、土や人工芝が複数面、ということが多く、クラブハウスにはシャワールームやレストランもある。
それぞれのクラブには、小学1・2年生くらいから大人まで、年代別のチームがあり、年齢に合った形式で試合を行っている。小学3・4年生くらいの年代からは、年間を通してリーグ戦を戦う。どんなレベルのチームでも、年間20~30試合ほどの公式戦があるそうだ。
日本の高校サッカーでは当時、強豪校でもなければ、年間で10試合公式戦があれば、いいほうだった。
チームの人数が多ければ、選手のレベルによって、Aチーム、Bチーム、Cチームというふうにチーム分けするのは、日本と同じだ。でも、Bチームだからといって「公式戦ではベンチや観客席から応援する」ということではない。
Bチームも、Cチームも、ひとつの「チーム」として登録されていて、公式のリーグ戦に参加するからだ。だからどんなレベルの選手でも、小さいころから当たり前のように、試合に出ることができる。
「ドイツの人たちは、小さいころからずっとそうやって『サッカー』をしているんだ。試合に出るからサッカーだし、だからサッカーは楽しいんだよ」
日本で試合に出られないまま、悶々とした日々を過ごしていた僕は、ドキッとした。と同時に、その話はすごく魅力的にも聞こえた。
日本で教わってきたサッカーにも楽しいところがあったけど、それはまだまだサッカーのほんの一部でしかないのかもしれない。
僕はまだ、サッカーの本当の楽しさを知らないのかもしれない。
環境からしてまったくちがうサッカーが、ドイツにはあるのかもしれない。
「ドイツって好きだな。ドイツのサッカーが好きだな」
「いつか日本を飛び出して、ドイツで暮らしてみたいな……」
帰国するころには、僕はすっかりドイツの魅力にとりつかれていた。
またドイツへ行くために
夢心地だったドイツから日本へもどった僕は、現実と向き合うことになった。
わずか1週間ちょっとの滞在で、サッカーが劇的にうまくなる……なんてことはなかったのだ。
それでも僕は、ドイツへ行く前にもくろんだとおり「夏の大会まで残留して、レギュラーになってみせる」って願っていたけど、残念ながらいろいろあって、僕も大会前に引退しなければならなくなった。
すっきりしない終わり方。
サッカー部での毎日は「ホケツ」な僕として終わりを告げた。
さあ、どうしよう。
それこそ「高校卒業後にドイツへ行って、ドイツの大学へ通う」なんてことも考えた。でも結論から言うと、それは僕にとって、ハードルが高すぎた。
日本の高校卒業後にドイツの大学に入学するには、ドイツで大学入学資格を取得しなければならないのだ。もちろん試験問題はドイツ語で出題される。
今からドイツ語を勉強して、さらに大学入試を受けるなんて……。
両親とも話をした。
「まずは日本の大学を卒業して、それからドイツを目指したほうがいい」というアドバイスに、素直にうなずくことができたのは、「またドイツに行きたい」という目標が見つかっていたからだろう。
僕はすぐにドイツ語が勉強できる大学をリストアップして、受験勉強を始めた。
ただ、現役合格というのはちょっと虫が良すぎたようだ。
高校では学校の勉強を完全にほったらかしてサッカーに明け暮れてしまっていたので、しょうがないといえばしょうがない。巻き返そうとはするけど、勉強のリズムを見失っていて、取りもどすことがなかなかできなかった。
結局、一浪させてもらった後に無事、武蔵大学人文学部欧米文化学科ドイツ文化専攻に入学することができた。
重いとびらをひとつ、こじ開けた。
(本書に続く)
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理論社