中野吉之伴フッスバルラボ

【はじめに/第一章無料公開】3年間ホケツだった僕がドイツでサッカー指導者になった話

▼ 新刊の「はじめに」と「第一章」を無料公開!!

このたび、僕の半生を振り返った著書『3年間ホケツだった僕がドイツでサッカー指導者になった話』(理論社)を上梓しました!AMAZONでもすでに販売は開始されており、書店にも並び始めています。

今回の一時帰国で品川、碧南、河内長野、兵庫、一関、気仙沼、札幌、大分、中津と各地を回りながら、クリニックや講習会会場で先行販売をしましたが、おかげさまで数多くの方に新著をご購入いただきました。

早速読まれた方からのご感想も届いています。

「中野さんの新しい著書に書かれていた「僕たちは、サッカーの本当の面白さを知らなかったのかもしれない」という言葉にとても考えさせられています。

大好きだったサッカーがいつの間にか嫌いになり、サッカーから離れてしまった人は自分も含め日本中にたくさんいると思います。また、楽しくサッカーがしたいけど環境がないという人も同じく日本中にたくさんいると思います。

『今、何かがうまくなかったり、ホケツだったりするからといって、プレーする権利がないなんてことはない。
それですべての道が閉ざされるなんてこともない。
あきらめなきゃいけないなんて、おかしいんだ』
〜3年間ホケツだった僕がドイツでサッカー指導者になった話〜

現状を打破するために、できる事をコツコツと積み上げていきます!」

 

「夢に迷子な中・高生や大学生、原点に戻るべき指導者や保護者、いい本ですよ。

読めば読むほど、聞けば聞くほど、ドイツと日本の違い・・

どうも真似ができそうにない程の違い、さてさて良さを残しながら日本の子どもたちのために何ができるか、やろうとするか。まだまだ人生長いね」

今回と次回とで新著の冒頭にあたる「はじめに」と「第1章」を無料で公開します。読んでみて気になった方は、ぜひぜひ書店などでお手に取ってみてくださいませ!!


はじめに

「ドイツで、サッカーライターをしています」
「ドイツの子どもたちを相手に、サッカーの指導者をしています」
そう自己紹介すると、なぜか勝手に、僕がサッカーで「成功」してきた人だと思われがちだ。小さいころからサッカー一筋で、チームの中心選手として、何か大きな大会で優勝して……というふうに。

でも僕は、強豪チームでプレーをしたこともなければ、地域の選抜チームに選ばれたこともない。まして、小さなころからサッカーをしてきたわけでもない。

小中学校の9年間は野球少年だったし、高校で入部したサッカー部では、3年間ずっと「ホケツ」だった。つまり、試合でベンチにも入れない選手だったんだ。

そんな僕は今、妻と2人の息子と、ドイツで暮らしている。職業はサッカーライター。
主にドイツのプロサッカーリーグ(ブンデスリーガ)を取材している。

今から10年ほど前、長谷部誠選手や香川真司選手、内田篤人選手、岡崎慎司選手なんかがドイツでプレーしはじめたころから、何度も試合会場に足を運んでいる。

日本人選手だけでなく、世界的に有名なサッカー選手や監督たちを取材する機会にもめぐまれてきた。最高峰の舞台で活躍するプロフェッショナルたちの一挙手一投足を観察し、疑問をぶつけ、言葉を引き出す仕事は、いつだって刺激的だ。

ただ、僕がドイツへ来た理由は、サッカーライターになるためじゃなかった。

そして今も僕の「本業」はサッカーライターではないと思っている。

僕はサッカーの指導者だ。

監督やコーチとして、ドイツの子どもたちにサッカーを教えている。

2001年、僕がドイツへ飛んだ最大の理由、それは「グラスルーツのサッカー指導のエキスパート」になりたかったからなんだ。「グラスルーツ」は、英語で「草の根」という意味。僕ら一般の人々や、そういった人々が住む地域全般のことを指す言葉だ。

つまり「グラスルーツのサッカー」というのは、僕らのまわりのありふれたところで行われ、誰もが関われるサッカーのこと。日本でいうスポーツ少年団でのサッカーや、大人の草サッカーなんかが、イメージに近いかもしれない。

「地域で子どもにサッカーを教えることなんて、日本でもできるんじゃない?」

そう思う人もいるかもしれない。でも、ドイツと日本では、そんなグラスルーツであっても、スポーツを取り巻く環境がまったくちがう。

僕は偶然そのことを知って、ドイツのサッカーに憧れて、ドイツへ渡ったんだ。

高校生のころ、僕はホケツで、試合に出たくてしかたなかった。一方で、当たり前のように、こうも思っていた。

「サッカーがうまくないから、試合に出られなくてもしかたない」

でも、僕は高校3年生のころ、あるきっかけでドイツのサッカーと出合い、「それはちがうんじゃないか」と思いはじめた。

うまくなるための努力が必要ない、と言っているんじゃない。もちろん努力は大切なことだ。でも、競争に負けてしまったら、それっきり、好きなことをあきらめないといけない状況は、まちがっている。今はそう、はっきりと言える。

今、何かがうまくなかったり、ホケツだったりするからといって、プレーする権利がないなんてことはない。それですべての道が閉ざされるなんてこともない。

あきらめなきゃいけないなんて、おかしいんだ。

僕はホケツとして、もがいた経験があるからこそ、どんな選手でも、いつでも、どこでもサッカーを楽しめる環境をつくっていきたいと思ったんだ。

だからサッカー指導者を目指して、今、こうして暮らしている。

この本では、そんな僕のこれまでの歩みを、当時の目線で振り返っている。

自分らしく生きていくためのヒントを、この本からちょっとでも見つけてくれたら、とてもうれしい。

第1章 ホケツの僕、ドイツへ

もっとうまくなりたい

成田からフランクフルトへの飛行機の旅が、当時の僕にとっては大冒険だった。
高校3年生。初めてのひとり旅。
海外旅行も初めて。パスポートをつくったのだって初めてだ。
行き先はドイツ。ワクワクしていたけど、不安もあった。
忘れものをしていないか、何度も何度も確認した。
僕はそのとき、ホケツ選手だった。
それもサッカー強豪校の、ではなく、ふつうの私立高校のサッカー部でだ。

小学1年生から中学3年生までの9年間、野球をしていた僕が、高校でサッカー部を選んだのには、いろいろな理由があった。

中学時代の野球部で球ひろいばかりやらされてうんざりしたこと、体育のサッカーが楽しかったこと、この年からJリーグがはじまったこと、高校でできた友達から誘われたこと──。

とにかく僕は、新しいことにチャレンジしたくて、サッカー部の門をたたいた。

初心者だから、すぐ公式戦に出られないのは当たり前だ。
練習ではボールにたくさんさわれるし、練習試合にも出られる。球ひろいばっかりの野球部での経験とくらべたら、それだけでもうれしかった。
でも僕は、上級生が引退して、自分たちの代がチームの中心になっても、ほとんど公式戦に出場することができなかった。
それだけじゃない。最後の3分間に出場しただけなのに、試合に負けた罰として、連帯責任でグラウンドを走らされたこともあった。理不尽な思いをしたくなくて、サッカーをはじめた僕としては、悔しかったし、悲しかった。

「試合に出たけりゃ、うまくなれ!」

そう思って、必死に練習していた。
でも、そんなかんたんにサッカーはうまくならない。
僕は左足でしかボールをうまく蹴れなかったし、それ以外にチームメイトに劣っているところも、たくさんあった。

「しょうがない」と思うしかなかった。ほかの可能性なんてなかったから。

ドイツサッカースクール

そんなときに目に飛び込んできたのが、「ストライカー」というサッカー雑誌の記事だった。「ドイツサッカースクール」の募集要項だ。

ドイツのケルンという町で1週間くらい、現地のコーチにサッカーを教えてもらえる、という内容だった。高額な参加費にひるんだけど、思い切って両親に相談したら、背中を押してもらえて、参加できることになった。

部活では、すでに高校3年の春の大会が終わっていた。夏の大会は残っていたけど、進学校だったから、同学年の選手の多くは大学受験のために引退していた。

「ドイツでサッカーがうまくなって帰ってくれば、下級生中心のチームでレギュラーになれるんじゃないか……」

そんな淡い淡い期待をもって、僕は成田空港へと向かったんだ。

(続く)


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元JリーガーでFCジュニオール代表の浦本雅志さん(右)と、元日本代表で女子クラブの育成指導者として活躍されてる山下芳輝さん(左)

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