中野吉之伴フッスバルラボ

【きちルポ】フライブルク日本文化の日で聞いた震災被害にあった日本人住職の話。僕らはなんで生きているんだろう?

▼ 日本からご住職が来独

今回のフライブルク日本文化の日には、岩手県一ノ関から佐藤良規住職に直接フライブルクで話をしてもらうという素晴らしい機会があった。じつはこの良規住職は以前から僕が親しくさせていただいている方。

日本ではフットサルクラブの代表も務められており、一ノ関を僕が訪れて、サッカー関連の講習会を開催させてもらったこともある。住職から震災で家をなくした子供が自分のクラブに練習参加しているという話を聞いて、チーム練習に参加させてもらい、一緒にボールを蹴ったりもした。

これまでいろんな話を聞かせていただいたが、住職ご自身が震災をどう乗り越え、どのように受け止め、どのような思いで活動をしているのかというのを、掘り下げて聞く機会はなかった。

住職の話は、とても響いた。僕だけではなく、参席された皆さんにとってそうだったことだろう。住職の話にとても真剣に耳を傾けていた。そんな素敵な話をこちらでも紹介したい。

▼ 3つのギフト

良規さんは震災時に沿岸部を訪れており、津波の被害を受けている。襲いくる波の勢いになすすべもない。それでも4トントラック車上に立って九死に一生を得たと振り返られていた。車の上に立っても、水が膝丈まであったという。「まるで海の上に立っているかのようだった」と。

現実離れした風景。でもそれが現実であり、未曾有の大震災による悲劇の映像なのだ。

2万人以上の方が命を落とした。フライブルクの人口の約十分の一にあたる。その事実はあまりにも重い。息を深く飲み込む音が聞こえてくる。フライブルク大学の学生は2万人強だが、その学生みんなが帰らぬ人となったくらいの被害なのだから。

良規さんは生き延びた。家族も無事だった。

何度も頭をよぎったという。

「なぜ私が生きているのか?」

何か自分にもできることはないかと動いた。ボランティアとして避難所に足を運び、いろんな人の話を聞いた。そんな活動を繰り返しているうちに、《3つのギフト》に気づくようになったという。

1:今、生きている

苦しかった。自分よりも若い人もたくさん死んだ。なぜ自分なのか。命とは何なのか。考えても考えても答えは出ない。ある日、そんな自問自答を諦めた。大事なのは今生きている事実だけということに気づいたのだという。

その事実をかみしめて、今を大事に生きてくことが大切なのだと。

生きていなければこうやってドイツに来ることもできなかった。ドイツの人と交流をすることもできなかった。握手をすることも、ハグすることも、ちょっとした冗談で笑うこともできない。

生きているという事実の素晴らしさ。

それを僕らは忘れてはならないのだ。

2:助け合い、喜び合う

ボランティアとして避難所で生活している人を助けに行っているつもりだった。でも違った。自分はいつも助けられて帰っていることに気づいたのだという。自分に何かができているわけではない。何もできない。何も変えられない。そんな無力さを感じながら、でも行くとみんなに感謝される。

そうやって感謝されることに感謝する。それが確かな生きる力となっていく。

世の中のありとあらゆるものはつながっている。結びついている。無駄なことなんて、役に立たないことなんてない。ちょっとしたことかもしれない。たいしたことではないのかもしれない。でも、そのちょっとしたことが大きな助けになることもある。それもたくさんある。

そうやって僕らは助け合って、支え合って、そして喜び合って命の輝きを高めているのだ。

良規さんは、《はまわらす》という名前で子供たちの自然活動サポートもしている。当たり前のことだが津波の後、海が怖いと思う子ばかりだった。特に子供たちはそうだった。海は命を奪った。かけがえのない命をたくさん持っていった。でも、沿岸部で暮らす人にとって海を知らずに育つことは、逆に危険となる。それに海の素晴らしさ、楽しさだってあるというのを知ってもらいたい。

安全を確保して子どもたちがまた遊べるようにと動いた。最初は難しかった。海への恐怖心が急にほどけたりはしない。でも少しずつ子どもたちに笑顔が戻っていった。子供達が楽しそうに遊ぶようになった。

良規さんは心から嬉しかったと振り返る。そんな子供たちの様子を見て、地域の大人も喜んでくれた。

3:未来にギフト

はまわらすでは2015年から活動し、2020年までの5年間で2千人の子どもたちと参加している。良規さんは15年から19年まで理事長として、19年から21年まで顧問として関わってこられた。子供達の成長をそばで見られることは喜びでしかない、と。彼らの笑顔は未来へつながっているのだから

僕も被災地でサッカートレーニングをしたことがある。ひょっとしたら、そのときだけかもしれない。サッカーをしたり、海で遊んで帰った後には、悲しい思いが戻ってきたりするかもしれない。それでも、そうしたポジティブなエネルギーが心に注ぎ、蓄えられていくことで、僕らは前へ進む力を手にすることができる。

ちょっとずつでも、そうやって立ち上がる力が確かに宿るんだ。

▼ 未来にギフトする3ステップ

穏やかな声で、落ち着いたトーンで話を続けていく良規さんに耳を傾ける。次はどんなことを話してくれるんだろうという雰囲気が生まれていく。通訳も素晴らしい。そこにいるみんなで《命とは?》という命題を共有する。

良規さんは僕らに3つのステップについて話してくれた。

1:生きていることを深く味わう

深呼吸することも、近くにいる大事な人を思うことも大切なこと。

僕らが当たり前だと思っているありとあらゆることが当たり前のことではない。僕らが些細なことだと思っているありとあらゆることが大きな意味を持っている。

子供達にとって生きていることを深く味わっていると実感できる瞬間はなんだろう?

それこそ《遊ぶ》ことではないだろうか。友達と、家族と、仲間と、思う存分夢中になって、自然と笑顔になって、時間も忘れて、幸せをかみしめながら、喜び合い、分かち合える空間はかけがえないのだ。

そんな環境を僕たち大人が作って、守って、支えていきたいではないか。

2:問うこと

どう生きるべきか。どう積み上げるべきか。

そんな問いと向き合う時間はあるだろうか?忙しい毎日を立ち止まり、自分に問いかける機会を大切にしているだろうか?

良規さんは言う。

「私の命が喜ぶ生き方をしたい。
財布ではなく、頭ではなくて、私の命が。
子供達が毎日笑顔で生きれる世界を作りたい」

たとえ何が起ころうと、どれだけ苦しいことがあっても、子供達が笑顔で暮らせるようなアプローチはすることができる。子どもたちに我慢を強いるのではない。

みなさんもぜひ自分の命に問いかけてみてはいかがだろうか。「私の命が喜ぶことってなんだろう」って。そして、「いま自分が取り組んでいることは、果たして私の命が喜んでいるだろうか」、と。

3:行動する

良規さんのところでは《森の寺小屋》という取り組みも行われている。そこでは子供だけではなく大人でも誰でも安心していい場所だ。何かを学ばなきゃいけないところではない。決められたカリキュラムがあるわけではない。

不登校で苦しんでいる子どもたちがいる。
集団生活に心を削り取られている子どもたちがいる。

子供だけではなく、大人だってそうだ。誰にだって心の安らぎを感じられる場所が必要なんだ。

《1000年芸術の森》というアプローチもしている。未来に昔からの森を残すために。寺に所属する森を守れるように。政治を介するのではなく、自分達の関与できる範疇でできることをやっていく。

《はまわらす》の活動には環境保護としてのものもある。砂浜を守り、きれいにする。そうした活動について、地域の学校に行って話をする。

《環境問題って難しい?》

子供たちにそう思わせないためにちょっとおどけたそんなコスチュームで訪問したりもするという。すべてはつながっていくのだ。

最後に中庭で《ブルーキャンドル》にみんなで火を灯すというイベントを一緒にした。ブルーは命の循環を意味し、海と空のシンボルとなる。

2本のろうそくに火を灯す。1本は失った命に、そしてもう一本は生きている命へ思いを込めて。今回は会場の問題もあり、良規さんが代表で2本の大きなろうそくに火を灯し、僕らはそれぞれが一本ずつ火を灯した。

生きていることを感じる、お互いの存在を感じる。

みんなで手を合わせて黙とうした時間はそれぞれに何かをもたらしたのではないかと思うのだ。僕はそう感じた。そして良規さんが最後に僕らへ伝えてくれた《問い》を心の中でつぶやいた。

「あなたはどう未来へギフトしますか?」

僕が未来のために、子どもたちのためにできることはなんだろう?僕の命が喜ぶことってなんだろう?

今度一時帰国するときにははまわらすとコラボをして、僕が子供たちにサッカーを通じてコミュニケーションを取り、子どもたちからは海遊びを教えてもらえたら素敵だな、なんてことを思ったりしている。僕もどんどん行動してみよう。

みなさんにも、ぜひ自分に問いかける機会を持ってほしい。僕らでもできることは、意外に身近にたくさんあったりするのだ。

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