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【無料公開】今こそ振り返ろう。Jリーグでの10シーズン クラブ社長が語る「J2年代記」松本山雅FCの場合<1/2>

J2初挑戦での12位は「満足できる結果」

《今年は、松本山雅FCのホームスタジアムであるサンプロ アルウィン(松本平広域公園総合球技場)が2001年5月に開場して20周年、そして松本山雅FCが2012年にJリーグに昇格して10年目の記念の年です。》

 2021年5月、山雅の特設サイトには、このような一文が掲げられていた。コロナ禍という未曾有のアクシデントに加え、成績面でもさんざんなシーズンに終わった昨シーズン。そんなクラブにとり、久々に明るい話題となったのが、この2つのアニバーサリーである。とりわけ山雅がJリーグに到達した2012年は、クラブに関わるあらゆる当事者にとって起点となるエポックの年であった。

 そしてもうひとつ、この2012年はJリーグにとっても、極めて意義深い年であった。このシーズンからJ1が18クラブ、J2が22クラブとなり、40クラブの「定員」が埋まる。とりわけJ2に関しては、1999年に10クラブでスタートして以来、ずっとエクスパンションを繰り返し、その間はずっと「降格のないリーグ」として存続してきた。それが2012年から昇格も降格もある「完成されたJ2」となったのである(余談ながらJ1昇格プレーオフがスタートしたのも、このシーズンからだ)。

「完成されたJ2」となってから、今年で10シーズン目。この機会に、2012年以降のJ2の歩みを、ふたりのクラブ社長の視線から振り返ってみてはどうか──。そんな企画をフットボール批評に提案したところ、ゴーサインをいただくことになった。そのひとりに神田を指名したのは、この年から山雅のスタッフに加わっていたことも大きい。2012年から今に至る、松本山雅の成長と低迷を神田の歩みと重ねることで、J2の歴史の一端が見えてくるのではないか──。幸いクラブ側も、私の提案を快く受け入れてくれた。

「松本に戻って、まず驚いたのが『こんなにポジティブに受け入れてもらえるのか』ということでした。不動産は形があるものを売る仕事でしたが、サッカークラブは形がないものを売るのが商売。これは周囲からも指摘されていたことですが、不動産会社にいた時は嘘がつけないというか(苦笑)、器用に立ち回ることができなかったんですよね。それがこっちに移ってからは、堂々と夢や希望を語ってスポンサーを集められるようになりました。自分にとっては、こっちのほうが間違いなくやりやすかったです」

 入社したばかりの2012年の状況について、懐かしげにそう語る神田。新しい仕事を天職と感じる一方、自分の転職先が他のJクラブと異なることに気づくのに、さほどの時間を要することはなかった。アルウィンのスタンドを埋め尽くす、J2とは思えないくらいの入場者と盛り上がり。北信越2部の時代から兆しは感じていたが、その後も平均入場者数は右肩上がりを続け、2012年は9531人でいきなりリーグ3位となった。

「もちろん営業の仕事が最優先でしたが、可能な限り試合を現場で見るようにしていました。あえてゴール裏で見ることもあったんですが、山雅サポーターの応援については、あらためて『すごい!』って感じていましたね。一体感もさることながら(対戦相手への)威圧感もあって、これはかなり選手を後押しするんだろうなって思いました」

 そして、この人気クラブを率いるのが、元U−23日本代表監督の反町康治。奇しくも神田と反町は、同じ2012年に山雅にジョインしている。もっとも神田いわく「当時のソリさんは近寄りがたい存在でしたので、僕が社長になるまではほとんど話していません(笑)」。反町体制1年目の山雅は、12位でJ2のルーキーイヤーを終えることとなった。神田は「1年目にしては、十分に満足できる結果でしたね」と言い切る。

「1年目は降格の可能性を、ソリさんはすごく意識していました。だからこそ『負けにくいサッカー』に徹していたんだと思います。しかも、あの年のメンバーはJFL時代と比べて、大きく変わっていなかったんですね。あのサッカーとメンバーで、初めてのJ2を12位でフィニッシュできたんですから、現場はよく頑張ってくれたと思っています」

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