宇都宮徹壱ウェブマガジン

【無料公開】今こそ振り返ろう。Jリーグでの10シーズン クラブ社長が語る「J2年代記」松本山雅FCの場合<1/2>

 今年も残すところ、あと1カ月。12月は木・金が5回あるので、第1週を宇都宮徹壱WMのアーカイブから無料公開とすることにしたい。ピックアップしたのは、フットボール批評のissue32『禁断の「脱J2魔境マニュアル」』のスピンオフ企画。松本山雅FCの神田文之社長へのインタビューから、2012年から今に至るJリーグでの10シーズンを再構成したのが本稿である。掲載したのは半年前だが、山雅のJ3降格決定を受けて、あえてこのタイミングでの無料公開とした。

 ところで先日、あのロック総統が(山雅を名指しこそしなかったものの)クラブの降格について、極めて興味深いツイートをしていたので紹介したい。

 要するにリーグ戦で「勝てなくなった」というのは、戦力やチームマネジメントや経営面も含めて、そのリーグに似つかわしくないクラブになってしまったということだ──。ということを、総統は伝えたかったのだと思う。社長とか監督とか選手とか、そういった個々の問題以前に、J2というカテゴリーを戦う上でクラブの総合力が足りなかったからこそ、当然の帰結としての降格があった。この考え方には、一定の説得力が感じられる。

 実際、山雅の神田社長は今回のインタビューで、このように述べている。すなわち「この10年、経営基盤を含めてしっかりビジネスをしているクラブが、明らかにJ2でも増えているように感じます。それがピッチ上での現象として現れていますよね」と。山雅がJクラブとなった2012年当時と比べて、J2のレベルが格段にアップしていることは、このカテゴリーを5~6年も見ていれば明らかだろう。

 進化を続けるJ2というカテゴリーにおいて、少なくとも反町康治監督時代はアップデートできていたし、その延長線上に2度のJ1昇格もあった。けれども長期政権終了後、そのアップデートが何らかの理由で遅滞してしまい、それがJ3降格という結果を招いてしまった。そう考えれば、これは決して理不尽な降格ではない。Jクラブとなって10シーズン、松本山雅FCはどのように歩んできたのか? あらためて神田社長の回想をもとに、考察する機会となれば幸いである。

<1/2>目次

*北信越2部時代の思い出と予想外のオファー

J2初挑戦での12位は「満足できる結果」

*設立50周年でたどり着いたトップリーグ

北信越2部時代の思い出と予想外のオファー

「まつもとぉ~、まつもとぉ~」

 一度聞いたら絶対に耳から離れない、JR松本駅の独特の構内アナウンス。信州・松本を訪れるのは「ソリさん」こと反町康治の松本山雅FCラストマッチとなった、2年前のJ1最終節以来のことだ。コロナ禍ですっかりご無沙汰してしまったが、この地を再び訪れることに、深い感慨を覚えずにはいられない。

 ちょうどGWの終盤ということもあり、松本の観光スポット周辺はどこも人で溢れていた。とはいえ、今回の来信の目的はもちろん観光ではない。この日は『喫茶山雅』にて、株式会社松本山雅の社長、神田文之のインタビューが予定されていた。前社長の大月弘士には何度か取材をしているが、現社長にじっくり話を聞くのは今回が初めて。挨拶もそこそこに、まずはこのクラブとの最初の縁(えにし)について語ってもらった。

「当時(2005年)所属していたFCホリコシ(のちのアルテ高崎。2011年解散)のチームメイトを通じて、クラブ関係者から『半年でもいいから、力を貸してくれ』という話をいただいたのがきっかけです。山雅の印象ですか? とにかく素朴で温かみがあって、当時の八木(誠)代表を含めて、クラブを運営している人たちの顔がよく見えましたね。その意味では居心地は良かったんですけれど、このクラブがJリーグに到達するには、まだまだ時間がかかるだろうというのが、その頃の率直な印象でした」

 神田は1977年生まれで山梨県出身。東京学芸大学を卒業後、2000年にヴァンフォーレ甲府に入団し、この年にJ2リーグで13試合に出場している。その後、移籍したFCホリコシで「そろそろ選手生活から足を洗おうか」と思っていたときに、声をかけてきたのが、当時北信越リーグ2部に所属していた松本山雅FCだった。

 2005年の山雅といえば、クラブが将来のJリーグ入りを標榜し、その運営母体としてASP(アルウィン・スポーツ・プロジェクト)というNPO法人を立ち上げた年でもあった。その記念すべきタイミングで、のちにクラブ社長となる神田が(わずか3カ月間とはいえ)、プレーしていたという事実は興味深い。

「あれはアルウィンでの最終節だったと思います。北信越1部の昇格が決まったんですけど、その時に1000人を超えるサポーターが来ていて、スタンドからグリーンのテープが一斉に投げ込まれたんですよね。とても地域リーグの2部とは思えないくらいの盛り上がりでした。実はその時に『ウチに残らないか?』というお話もいただいていたんです。でも、選手としてひと区切り付けることは決めていましたし、居心地が良いから残るのも違うかなと。それで、その年限りでスパイクを脱ぐことにしました」

 かくして2005年をもって、いったん山雅と袂を分かつこととなった神田は、東京の大手不動産会社に就職。営業として働きながら、週末は東京都リーグで草サッカーに興じる生活を続けていた。一方の山雅は、2009年の地域決勝に優勝してJFLに昇格すると、2年後にはJFLを4位でフィニッシュ。悲願だったJ2昇格を果たしている。山雅にとって、まさに「激動」そのものだった2011年は、ようやく不動産営業の仕事に慣れてきた神田にとっても、強く印象に残るシーズンだったという。

「山雅のニュースは、よくチェックしていましたね。といっても、Yahoo!ニュースのスポーツ記事でしたけど(苦笑)。同じ職場にいたレッズサポの同僚から『山雅、昇格したじゃん!』って声をかけられたのは、よく覚えています。正直なところ、僕がチームを離れてから6年でJリーグにたどり着くとは、夢にも思いませんでした。実はその年の12月、いきなり大月社長から電話をもらったんです。『ちょっと新宿に行くから、話を聞いてくれ』みたいな感じで」

「ウチに戻って、営業をやらないか?」──予想外のオファーだった。今の仕事にはやりがいを感じつつも、いずれスポーツに関わるビジネスをやってみたい。そんな夢を、神田は密かに抱いていた。かくして翌2012年、松本山雅FCJクラブとなった年に、神田は懐かしの信州・松本に7年ぶりに舞い戻ってくる。のちに自身が、このクラブの社長となることなど、もちろん夢にも思わなかった。

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