チーム崩壊はロンドン五輪から始まっていた? なでしこジャパンの敗北と再生をめぐる対談<前篇>
なでしこジャパンのリオデジャネイロ五輪予選敗退からまもなく1カ月になる。今回の残念な結果は、単に日本の五輪連続出場が途切れたのみならず、なでしこスタイルの限界や女子サッカーの勢力図の変化、さらにはJFAのサポート体制やメディアの伝え方の是非など、さまざまな問題や課題が浮き彫りとなった。徹マガでもこの機会にきちんと考察したいと考え、今号と次号の2回にわたって女子サッカーの特集を組んだ次第だ。
今回、ゲストにお招きした石井和裕さん(右)と上野直彦さんは、私と同世代のサッカー仲間であり、かれこれ四半世紀以上にわたり女子サッカーに関わってきた方々だ。その長い女子サッカー観戦歴と幅広い視野から、石井さんには「ファン代表」として、上野さんには「取材者代表」として、なでしこジャパンの敗北と再生をテーマに語っていただいた。今回はその前篇をお届けする。(取材日:2016年3月16日@東京)
■それぞれの「女子サッカー原体験」
――今日はよろしくお願いします。本題に入る前に、おふたりのそれぞれの「女子サッカー原体験」というところからお話いただきたいと思います。まずは上野さんから。
上野 はい。僕は兵庫県の出身なんですけど、小学校3年から学校のサッカースクールに通っていたのですが、そこで神戸FCの試合へ行った時に、何人かのお姉さんがプレーしていたんですね。
──上野さんは私と同世代ですから、今から40年前くらいの話ですかね。私の小学校時代にも女子がいましたが、まだ「女子サッカー」という概念はなかったように記憶します。
上野 兵庫では女子のサッカーは、決して珍しいものではなかったんですね。けっこう「女子サッカー先進県」で、いろいろ選手を輩出しているんです。で、女子サッカーと深く関わるきっかけとなったのが89年。西が丘で女子リーグの開幕戦があって、ベレーザと清水FCというカードだったと記憶しています。お客さんもかなり入っていて、めちゃくちゃおもしろかったんですよ。記憶が正しければ、選手宣誓が野田朱美、ファーストゴールが高倉麻子、ファーストアシストが手塚貴子という。
石井 すごいな、それ(笑)。
――当時はまだ、L・リーグっていう名称でもなかったですよね?
上野 Lは94年からじゃないですかね。当時は日本女子リーグ(JLSL)でした。神戸でもけっこう公式戦は観ていました。TASAKI(ペルーレ)はもっとあとですけど、神戸FCの試合はけっこうやっていましたね。
――女子のワールドカップを初めて観戦したのは?
上野 99年のアメリカ大会ですね。でも当時は「ワールドカップ」という名称でなかったような。
石井 女子世界選手権でしたね。
上野 そうです。でも、当時はまだいち観客でした。試合も日本以外のカードでしたし。
――いずれにせよ黎明期の頃からご覧になって、それが気付いたら取材する立場になったってわけですね。石井さんはいかがでしょうか?
石井 僕の女子サッカー原体験は、松山の小学校の3年か4年くらいに、近所の病院の看護婦チームと試合をしたことですね。よっぽど珍しかったのか、NHKの全国ニュースで取り上げられたんですけど、今でもあの失点はオフサイドだったと信じています(笑)。
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