中野吉之伴フッスバルラボ

【育成論】サッカー界はグラスルーツが支えている。指導者をやることで得られる充実感は素晴らしく、素敵なもの

▼ ボランティアで回っているドイツのグラスルーツ

基本的にドイツにあるほとんどのクラブで指導者はボランティア。無報酬が当たり前だし、フライブルクの辺りでは強豪クラブでも月に100ユーロ(1万3千円)ほどもらえたらいい方だ。これは地方差があるのでドイツ全体がそう、というわけではないけど、いずれにしてもとてもそれだけで食べていくのはどう考えても無理というレベルなのは確かだ。

それならプロクラブならどうだ?

《プロクラブの育成指導者》になれればサッカーで生きていける?

そうともならない。育成アカデミーにおいて中軸を担う指導者なら十分なだけの給料をもらえている。トップクラスなら年収1億円近い人だっていないわけではない。ただみんながみんなに当てはまるわけではなく、他に仕事を持ちながら指導者をしている人も多いのだ。

おそらくサッカーで食べている指導者の数でいえば日本の方が多いでしょう。

でもドイツをはじめヨーロッパ諸国では《生きていくために稼ぐ》場所と《サッカーに関わる》ことを無理やり同調する必要はないという考えが一般的にあると思われる。サッカーが好きで、サッカーに関わりたい。でも、だから何が何でもサッカーで稼いでいきたいとはなりにくい。

指導者として確かな腕があって、それを見込まれて、ポストが与えられたら、一線級としてやっていける。でもそれ以外にもサッカーとのかかわり方はたくさんあるし、生き方がある。

むしろ、自分が愛するサッカー”と”生きていくためには、無理にサッカー”で”生きようとしない方がいいということを知っている人が多いと思うのだ。

朝から夕方まで仕事をする。家族との時間も作る。そこまでがまず必須の時間。なくしてはいけない大切な機会だ。そして空いた時間を見つけてグラウンドに立って子どもたちとの時間を心底味わう。そうしたサイクルを自分の人生の中に作り上げることができたら本当に幸せな時間をずっと享受することができる。

ボランティアでやっていると「自分の時間を削ってまで!」「タダでやってるんだぞ!」という意識が強くなってしまいがちなのかもしれないが、だからといって高飛車で高圧的な態度を取ったり、権威を振りかざすようになったり、自己満足に走ったり、勝利だけにこだわったり、でも力量がないからってそれこそ、体罰や差別的な指導になってしまったら誰も幸せになれない。

不思議だなぁって僕は思う。

子供達の指導者ができるという気持ちとしては、「ただでやらせてもらってるんだよ!」という喜びのほうが大きいからだ。指導者をやることで得られる充実感というのは、むしろお金を払ってでも手にしたいくらい、素晴らしく、代えがたく、素敵なものだから。

くだんの指導者風な指導屋さんたちがそう思えないということは、そもそもサッカーというスポーツそのものを、サッカーの喜びを、楽しさを、奥深さを、そしてそれを伝えるかけがえなさを知らないから、ということになる。

そもそも指導者の適性がないともいえるかもしれない。

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