中野吉之伴フッスバルラボ

広島とドイツがつながって感じたこと

 その日、広島を目指していた。

熊本駅から新幹線で向かっていた。前日、夜遅くまで指導者と熱のこもった話をしていたため、ギリギリまでベットの中にいた私は、駅で朝食用のおにぎりとお茶だけを買った。それを車内で食べながらボンヤリと外の景色を眺め、もの思いにふけった。1月8日から20日までサッカークリニック、指導者講習会、保護者向け講演会と連日スケジュールを詰め込んだ中で、この日は唯一あるプロジェクトのために時間を確保した。

11月中旬、所属先のフライブルガーFCの育成部長から連絡があった。

クリスマスに向けての各チームでチャリティプログラムを考えてほしいというものだった。あるチームは老人ホームを訪問して一緒にお茶の時間を過ごしたり、あるチームはホームレスのために寄付金を募ったりと、それぞれのアイディアで所属選手が社会貢献の機会を作ることが狙いだった。この連絡を受けたとき、すぐに思いついたのが日本の自然災害の被災地にサッカーグッズを届けるというアクションだった。

かつて東日本大震災があった際にも、当時の所属クラブで同じようにサッカーグッズを募り、知り合いの後輩指導者を介して宮城県南三陸の志津川中学校サッカー部に多くの備品を寄付し、自身も後日同サッカー部で指導する機会を作った(参照=「南三陸訪問記」)。岩手県で先生をしている友人との縁で、講演会を行うために釜石の中学校にも訪れた。被災地から転校してきた少年がいると、友人に紹介された一関のフットサルクラブ『ヴィヴァーレ一関』で一緒にボールを蹴った。昨年は、熊本地震で被害が大きかった益城町を訪問し、保護者向けの講演会と地元の子どもたちを集めてのサッカークリニックを開催した(参照=「決意を持って行動を起こし、心でつながりあうことが子どもの笑顔につながっていく」)。

私は、何かを残したかったわけではないし、何かを示したかったわけではない。いや、気持ちの中では、いつでも何かをしてあげたいという思いが常にある。世の中では心を痛め、思わず瞼を閉じてしまうニュースが次から次へと流れてくる。哀しくなる。やるせなくなる。自分にもできることはあるんじゃないかと考える。でも、すぐに何かを変えることはできない。自分が無理をしてどうにかなるくらいなら、世の中とっくにもっと住みやすくなっている。自分には、世間をひっくり返せるだけの権力も資金力も時間もない。だからといって目を背けるというのはやっぱり違う。誰も何もしなければ、変わるもの、変えられるものだっていつまでもそのままだ。できることをできる時にやっていく。やろうとすれば、やれることを見つけることはできる。それは南三陸、釜石、一関、熊本と自分で足を運ぶことで、より見えて、より感じられるようになってきた。

前回のコラムでも書いたが、日本滞在中は可能な限り日本各地に自分から行きたい。現地の人たちと交流し、もっと無理なくサッカーができるように、もっと無理なくサッカーとつながれるように、自分の経験と知識を広めていきたい。

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