2003年の「スタジアム推進プロジェクト」とは何か? 「(オールフォー)ヒロシマ・ノート」第01回<1/3>
今月から隔月で、エディオンピースウイング広島(Eピース)に関して「取材ノートの公開」という形で連載する。タイトルは「(オールフォー)ヒロシマ・ノート」。いうまでもなく、ノーベル文学賞作家の大江健三郎が1965年に発表した『ヒロシマ・ノート』を意識している。
『ヒロシマ・ノート』は、広島への原爆投下について、原水爆禁止世界大会、被爆者、そして被爆者の治療に当たる医師たちを取材してまとめられたものだ。大江が取材を開始したのは、原爆投下から18年後の1963年。戦後復興は果たしたものの、その傷跡は至るところに生々しく残っていたはずだ。
今年、2025年は広島・長崎の原爆投下、そして終戦から80年となる。その前年に、広島の街なかに新スタジアムがオープンし、被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞が受賞したのは、偶然ではありながら何かしらの附合を感じずにはいられない。
新スタといえば、昨年は広島以外にも、金沢では金沢ゴーゴーカレースタジアム(ゴースタ)が、そして長崎ではPEACE STADIUM Connected by SoftBank(ピースタ)が開業した。とりわけ後者に関しては、1000億円ともいわれる莫大な投資により、アリーナやホテルやオフィスビルを兼ね備えた複合施設として、大いに注目を集めている。
ピースタのオープンにより、Eピースの注目度はやや霞んでしまった印象は拭えないだろう。確かにスケール感と話題性では、ピースタが上回っていることは否定できない。けれども、ノンフィクションライター視点でいえば、Eピースには取材者として深堀りしたい要素が、ふんだんに詰まっている。そう、思えてならないのである。
理由は3つある。まず、広島の新スタ構想は2003年から始まっており、Eピースの開業まで21年もかかっていること。次に、新スタの建設予定地決定には、劇的な紆余曲折があったこと。そして、サンフレッチェ広島が運動の主体となるまでの間、「オールフォーヒロシマ(ALL FOR HIROSHIMA)」という勝手連的な市民グループが大きな役割を果たしていたこと。
この「オールフォーヒロシマ」に「ヒロシマ・ノート」をつなげたのが、当連載のタイトル。そして、ここでいうノートは「取材ノート」を意味している。現在進行中の広島での取材は、将来的な書籍化を目指しているが、その前段階として情報を定期的に整理して、当WMにてアウトプットしていく。
現在進行系の企画なので、各回に「オチ」を期待しないことをお勧めする。それでも、広島での街なかに「平和」を冠したスタジアムが生まれるまでの経緯については、さまざまな示唆に富んだ物語を提供できそうだ。それらは当事者の記憶を刺激するのみならず、今まさに新スタジアムを希求しているクラブや自治体、そして地元クラブを愛する人々にとっても、極めて有益な教訓と示唆を与えることだろう。
【編集部より】本稿にある2003年4月に設立された「スタジアム推進プロジェクト」で、常駐スタッフだった方の情報を求めております(事務局長だった今西和男氏を除く)。ご本人、あるいは当時のことをご存じの方は、下記メールアドレスまでご一報ください。
infotetewm@targma.jp
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