「ALL FOR HIROSHIMA」をクラブはどう見ていたのか? 元サンフレッチェ広島社長が語るEピース建設秘話<3/3>
■ALL FOR HIROSHIMAとサンフレッチェとの関係性
──初めてサンフレッチェに関わったのが1998年。それから9年後に社長として再び関わることになるわけですが、クラブの状況に違いは感じましたか?
本谷 それほど感じなかったですね。知っているスタッフがけっこう残っていたし、僕の考えもクラブ内に浸透していました。ですから、何かを大きく変えようという感じではなかったです。ただ、社長として社員全員と面談して、そこから吸い上げたものは方針に反映させました。
──就任当初は「1年でのJ1復帰」がミッションでした。けれども、就任5年目でJ1優勝というイメージを思い描くことは、できたんでしょうか?
本谷 いや、まったく描けていないよね。ミシャのサッカーなら、ある程度の上位は行けるだろうとは思っていましたよ。ただいかんせん、当時の主力選手が若すぎましたから、優勝というところまではなかなかね。
──ちょうどこの頃、つまり2008年からAFH(ALL FOR HIROSHIMA)という勝手連の団体が「旧広島市民球場の跡地にスタジアムを」という市民運動を展開していきます。本谷さんが彼らの存在を認識したのは、いつ頃だったのでしょうか?
本谷 はっきりとは覚えていませんが、そういう動きがあるということについては、クラブの社長としてポジティブに捉えていました。中心メンバーの中には、スタジアムDJでのちに市議会議員となった石橋竜史さんをはじめ、サンフレッチェに近い人たちも何人かいました。けれども、あくまでも僕個人のお付き合いの中での話でしたね。
──当時はクラブとして「新しいスタジアムがほしい」ということは、なかなか表立って言えなかったと聞いています。
本谷 まったくその通り。ですから、彼らの活動を公に応援できんかったですね。
──あるAFHのメンバーから聞いたのですが、本谷さんが以前「最も大変な時期に、彼ら(AFH)だけに苦労をかけさせたのは申し訳ない」とおっしゃったそうですね。
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