最初に「街なかにスタジアムを!」と言い出したのは誰か? 元サンフレッチェ広島社長が語るEピース建設秘話<1/3>
今年、広島にオープンしたエディオンピースウィング広島(Eピース)。今季のJリーグ開幕戦につづいて、先月11日にはワールドカップ・アジア2次予選の日本vsシリアも取材してきた。今回お届けするのは、代表戦の翌日でのインタビュー。ご登場いただくのは、サンフレッチェ広島の元社長、本谷祐一さんである。
本谷さんは1954生まれで広島県呉市出身。1978年に家電量販のダイイチ(現・エディオン)に入社し、1998年にサンフレッチェの事業本部長に就任して、経営の立て直しに尽力する。その後、クラブが2度目のJ2降格となった2007年、今度は社長に就任。1年でJ1復帰を果たし、2012年のJ1初優勝を見届けて社長を退任している。
60歳でエディオンを退社。今は瀬戸内海の島で、畑仕事と海釣りを楽しむ日々だという。そんな本谷さんにお話を伺おうと思ったのは、Eピース建設に関して、どうしても確認したいことがあったからだ。
今年4月に掲載して大きな反響があった、AFH(ALL FOR HIROSHIMA)に関するインタビュー記事(参照)。この中で、取材に応じてくれた「またろ」さんが、こんな証言をしている。
これは最近になって知ったことですが、久保(允誉)さんの次にサンフレッチェの社長になった本谷祐一さんが、AFHのことを気にしてくれていたそうです。「最も大変な時期に、彼らだけに苦労をかけさせたのは申し訳ない」と、本谷さんに近い筋の方から聞きました。
サンフレッチェが、広島県サッカー協会と後援会との連名で、県と市にスタジアム建設要望書を提出したのが2012年8月。さらに「START FOR 夢スタジアム HIROSHIMA」というキャッチフレーズで、当時の森保一監督と選手たちが街頭での署名活動を開始している(それまでクラブは、表立って新スタジアム建設を訴えることを控えていた)。
AFHが結成されて、ボトムアップによる市民活動を開始したのが2008年。新スタジアム建設に向けて、サンフレッチェが具体的に動き出す4年前の話である。当時のクラブ社長である本谷さんは、AFHの活動をどのように見て、2012年のアクションにつなげていったのだろうか。森保監督との興味深いエピソードも含めて、貴重な証言を残していただいた。(取材日:2024年6月12日@広島)。
■Eピースで開催された日本代表戦に思ったこと
──昨日、エディオンピースウイング広島で代表戦をご覧になったそうですが、まずは率直な感想からお願いします。
本谷 広島の中心街で代表戦が行われて、あれだけお客さんが来てくれたのがまず嬉しかったですよね。試合内容については、相手(シリア)との実力差はあって大差がつきましたが、よく頑張っていたと思います。それと森保監督の涙が、すべてを表していましたよね。
──森保さんからチケットを用意してもらったそうですが、サンフレッチェ広島の社長を退任されて以降もずっと交流がつづいていたんですね?
本谷 そうですね。僕は森保の(監督就任)1年目に辞めているんだけど、彼が退任する時にも、すぐに連絡をもらいましたよ。「まあ、今の成績だったらしょうがないな。一緒にメシでも食おう」なんてやりとりがありました。
──森保さんとのエピソードについては、またあらためて伺うとして、さっそくEピースについてお聞きしたいと思います。街中に専用スタジアムができたことで、サンフレッチェ広島とホームタウン、それぞれにどのような影響を与えると本谷さんはお考えでしょうか?
本谷 サンフレッチェに与えるものは大きいですね。あそこでプレーしたいという選手も出てくるだろうし、クラブとしてもスタジアムの指定管理をしながら新たな収入を得ることで、それを強化に回すことも可能になると思うんです。地域にとっても、いい影響があると思います。昨日も試合後、たくさんの人たちが街中の飲食店に流れていきましたよね。しかも、女性のお客さんの数も多かった。これも街なかスタジアムの影響なんだと思いました。
──以前のビッグアーチだったら、試合後に食事というのは難しかったでしょうね。あらためて伺いたいのですが、そもそも「街なかにスタジアムを!」と最初に言い出したのは、誰だったんでしょうか?
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