宇都宮徹壱ウェブマガジン

【無料公開】ブラジル人元Jリーガーが大集合! 僕らが日本サッカーに感じること<1/2>

 今月は木曜日が5回あるので、過去のWMアーカイブの中から蔵出しして無料公開。今週は2019年7月11日と12日に公開した「ブラジル人元Jリーガーが大集合! 僕らが日本サッカーに感じること」をお届けすることにしたい。これはコパ・アメリカ開催中にサンパウロのジャパン・ハウスで開催されたイベント「元サッカー選手・監督が語る日伯サッカーの魅力」の模様を再構成したものである。

 登壇したのは、以下の6人(カッコ内は所属当時のJクラブ名)。写真左から、セザール・サンパイオ(横浜F、柏、広島)、三浦泰年(清水、V川崎、福岡、神戸)、ワシントン(東京V、浦和)、カレカ(柏)、レヴィー・クルピ(C大阪&G大阪監督)、ビスマルク(V川崎、鹿島、神戸)の各氏。登壇者以外にも、ベッチーニョ氏(平塚、川崎F)や呂比須ワグナー氏(柏、平塚、名古屋、FC東京、福岡)といった懐かしい顔を見つけることができた。

 このイベントでMCを務めたサンパイオ氏は、当時はESPNの解説者であったが、つい先日にはブラジル代表の分析コーチとして来日。日本代表についての明晰なコメントを残している。われわれはまだまだサッカー王国から学ぶことが少なくない。今から3年前のイベントであるが、ブラジル人元Jリーガーたちの提言の数々は、今読んでもさまざまな示唆に満ちている。ぜひ、最後までお読みいただきたい。(収録:2019年6月26日@サンパウロ)

<1/2>目次

*カレカ「日本での4年間はかけがえの無い経験となった」

*ビスマルク「ヴェルディはいい意味で僕を裏切ってくれた」

*ワシントン「メンタリティの弱さは日本サッカーの欠点」

カレカ「日本での4年間はかけがえの無い経験となった」

サンパイオ まずはレヴィー・クルピさんからお話を伺いましょう。レヴィー、あなたはセレッソ大阪とガンバ大阪で長く指揮を執ってきました。日本での豊富な指導経験から、どのようなものをブラジルに持ち帰ったのでしょうか。

クルピ 私は日本に10年近く暮らしていたが、こうしてブラジルに戻ってきてあらためて思うのは、私は日本にサッカーを教えに行ったのではなく、実は日本でサッカーを学びに行ったということだ。私が日本に行くことができたのは、ある種の「ボーナス」だったと思っている。日本での経験は素晴らしいものばかりだった。

 そして教育と民度において、われわれは日本から学ぶべきことが多い。戦争や自然災害など、日本は多くの艱難辛苦を乗り越えてきた歴史がある。それはサッカーについても同様で、日本のサッカー界は非常に組織化されていて、それが発展の原動力になった。それは、今回のコパ・アメリカに参加したU-22代表の活躍を見れば明らかだ。

サンパイオ カレカ、君は柏レイソルに来る前はマラドーナのいたナポリでプレーしていた。Jリーグが開幕したとはいえ、まだまだサッカーが発展途上だった日本に赴いた理由は何だったのだろう? そもそもカレカと日本との接点は?

カレカ 僕が初めて日本と出会ったのは、グアラニからサンパウロに移籍して2年目。その時に加入した水島武蔵が、僕にとっての日本とのファーストコンタクトだったね。そして1985年、ミズノが作ったスパイク『モレリア』の開発に関わったことで、キャンペーンで訪日することができた。あれは本当に素晴らしいスパイクだったよ。

 その後、87年から93年まではナポリで6シーズン、プレーすることになった。マラドーナやフェラーラ、最後のほうはカンナバーロともチームメイトだったね。ナポリとの契約が終わってから、いったんブラジルに戻ったときに日立製作所の人たちと会うことになった。そこで言われたのは「日本でチャレンジしませんか?」というものだった。

 私が日本に来た時、柏レイソルは2部だった。ユニフォームは自分で洗濯したし、スパイクも自分で手入れした。のちにブラジルからホペイロを連れてきたんだけど、必ず日本人のスタッフを付けてノウハウを学ばせるようにクラブにお願いした。こうした技能を、きちんとクラブに残しておきたかったからだ。

 結局、トップリーグに上がるまで2年かかったけれど、私も日本についてはいい思い出しかない。子供たちは東京のアメリカンスクールで学んで、今でも日本語が少しできる。日本でのプレーを選んだのは、もちろんお金のこともあったけれど、日本サッカーに何かを残したかったし、私自身も日本での4年間はかけがえの無い経験となった。私のキャリアの中でも、非常に大きな部分を占めているといっても過言ではないね。

サンパイオ カレカ、ありがとう。次は、ビスマルクに聞こうかな。君が日本に来たときは、まだ若くて独身だった。最初はお母さんと一緒に暮らしていたと思うんだけど。

ビスマルク その前に僕のキャリアについて語らせてほしい。僕は1987年にバスコ・ダ・ガマでプロになって93年までプレーした。90年のワールドカップ・イタリア大会では、セレソンの一員として本大会に出場することができた。チームの中では若手だったので、ここにいるカレカにはよくいじめられたよ。「水を持ってこい」とか(笑)。

 結局、イタリアでは出番がなくて、バスコに戻ってきたら不遇の時代が待っていた。それまでタイトル獲得に貢献してきたのに、ずっと出番を与えられず給料も下がった。毎日ずっと、リオのビーチでランニングばかりしていたよ。そろそろバスコでのキャリアが終わることは自覚していた。移籍の第一候補は、スペインのセルタ・デ・ビーゴ。二番目がFCサンパウロ。そして三番目が日本のクラブだった。

 ちょうどその頃、ここにいるヤスのお父さんが通訳を連れて、僕に「日本でプレーをしないか」と誘ってくれた。かなり執拗な誘いだったので、僕は逃げ回っていたけれどね(笑)。その頃、僕は23歳で、次の年(1994年)にはワールドカップがある。日本なんかに行ったら、セレソンに呼ばれなくなってしまうからね。

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