【きちルポ】節目を大事にする僕らだからこそすべての子に目を向けたい。みんなが心からの笑顔で卒業・卒団していくわけではない事実
▼ 大事な節目だからこそ
日本の3月は卒業、卒団シーズン。
知人・友人のSNS界隈はそんなイベントで盛り上がっている。節目を大事にする日本文化が僕は好きだ。日本の小学校チームで指導者をしていたころは、卒団していく子どもたちに最大限の思い出をと張り切ったし、親子サッカーをしたり、懇親会をしたりとてもいい時間だった。
大人にとってこうしたイベントが思い出深く残りやすいのは、日本のスケジュールや習慣だと普段なかなかいろんなことができないのも関わっているのかもしれない。いつもなんだかんだで次の試合や大会に追われているから、息抜きのタイミングを見つけかねているのかもしれない。
《これで最後だから》という言葉が魔法のようにみんなを優しくする。節目というタイミングでようやくちょっと立ち止まって、それぞれの子と向き合うきっかけを作り出す。素敵な思い出とともに次のステージへ進んでいく子もきっとたくさんいることだろう。それで助かった子どももきっとたくさんいるのだろう。
でも、それですべてが帳消しになるというわけでもない。誰もが《終わりよければすべて良し》のエンディングパターンを受け入れられるわけではないのだから。
卒業・卒団シーズンの思い出作りはとても素晴らしい。でも、と思うこともある。それで大人サイドの罪滅ぼしにならないこともあるのだ。きっかけがあるのは大事だ。子供が大人に。大人が子供に。そんな歩み寄る一歩を踏むことはとても大事だ。ないよりあった方が何万倍もいいに決まっている。
僕たちはみんな多かれ少なかれ許容力を持っている。嫌なことがあっても、つらいことがあっても、悲しいことがあっても、やるせないことがあっても、《ある程度》は受け止めることができるし、受け流すことができるし、忘れることができる。寝て起きてスッキリ忘れて、元気になっていれたら、何の問題もない。
でもあくまでも《多かれ少なかれ》であって、何もかもではないのだ。
許容力には個人差がある。感受性にも個人差がある。ある子にとっては問題ないことが、他の子全てにとって問題ないわけではない。そこへの配慮がないとどこかで修復不可能な溝となってしまう。
そんな危惧的状況にまでなってしまっている子が、最後卒団イベントだけ楽しい思いができたからすべてスッキリ忘れるなんてことはないんだ。そんな簡単に、心に刺さったトゲは抜けないし、抜けた後の痛手が癒えることはない。
心優しい子はそれでも表面上はニコッとする。僕は大丈夫だよという雰囲気を出そうとする。それに大人が甘えてはいけない。悲しい目をしている子がいることを忘れてはいけないのだ。見落としてはいけないのだ。
日本では途中で辞めるのをよしとしない。やると決めたら最後までやるのが美徳。苦しくても、悲しくても、相談するまで、卒業するまでは耐えるように頑張る。
耐えて、しのいで、そして迎えた最後の日。
やり遂げた喜びなんてものよりも、やっと解放される安ど感が多いこの日を、何と呼べばいいのだろう。そんな子供たちを僕はたくさん知っている。いろんな親御さんや指導者から多くの相談を受けているから。
うまくいかないこと、つらいこと、大変なことと向き合ったときに、耐えたり、しのいだりする経験は大切ではある。でも解決されなければならないことが解決されずに当事者の子どもがただ耐え続けて、しのぎ続ける。そうした日々というのは自分の心を殺す日々以外の何ものでもない。
そんな子どもたちがいるという現実から目を背けないで。
そんな子どもたちに《仕方がないから》と手を差し伸べるのをあきらめないで。
いまこの瞬間からできることもたくさんあるから節目まで待たないで。
普段からの関わり合いを大事にして、毎日を大切にして、そして節目を楽しんで。そんな僕らでありたいと切に願う。
みんながみんな、心からの笑顔と涙で卒業・卒団できますように。
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