【きちルポ】ドイツサッカー界のメシアと持ち上げられ、サッカー人生を狂わされたダイスラーの引退劇からメディアのあり方を考える②
▼ 世間からの過大注目がもたらす弊害
スター選手へのあこがれは誰もが持っているものかもしれない。世間からの注目を集め、たくさんの人が憧れる存在。
でも度を超えた注目はお互いに不幸にしてしまうのかもしれない。プライベートがなくなり、あらゆることがネタにされる。好むと好まざるとも関係なく、世間が求めるスター像を演じなければならなくなる。どちらが先がわからなくなってきてしまう。
自分らしさをコントロールして、その役を演じることができる人もいるだろう。
お金をもらっているから。名声を持っているから。世間の代表としての存在だから。
それもある。でも、それを苦痛に感じる人だっているのだ。自身の夢や希望を選手に託す気持ちはよくわかる。でも、愛する選手が苦しむ姿を見たい人なんてどこにもいないはずだ。心の傷は、簡単には癒えない。その人の心の痛みは、その人にしかわからない。癒すためには、癒えるためにはそれなりの時間とそれなりの環境が必要になる。知らずのうちに疲れや痛みや苦しみをため込んで、とんでもない事態になってはじめて、「そんなに苦しんでいたとは知りませんでした」「そんなつもりはなかったです」では遅すぎるのだ。
SNSが広がり、小さなニュースが大きく取り扱われるような時代だ。何が真で、何がまやかしか見えにくくなっている時代だ。
だからこそ《常識的な振る舞い》というのを正しく理解して、正しく報じるメディアが、正しく支えられ、正しく認めらる時代になってほしい。
常識という言葉をドイツ語で《ein gesunder Menschenverstand》と言う。直訳すると《健全な人間の理性》。少し小難しく話すと、ドイツの哲学者エマヌエル・カントの純粋理性批判においては、理性ではなく悟性という言葉で訳されている。悟性とは感性と共同して認識を行う人間の認識能力のひとつであり、概念把握の能力とされている。
僕ら人間が持っている《悟性=理性・知性+感性》というものが《健全に》扱われることこそが、《常識》なのだ。これはドイツに限った話ではないはず。
だから、改めて立ち返って考えてみるべきではないだろうか。
常識的な振る舞いとはいかなることを言うのか、ということを。
▼ セバスティアン・ダイスラーの引退後インタビュー②
----2001年10月ビルト紙にあなたの銀行口座にFCバイエルンが2000万マルク(1000万ユーロ:15億)が振り込まれたというニュースがありました。2002年にバイエルンに移籍する証拠だと。
「午前中にそのニュースが出て、その午後に僕はハンブルクとの試合に出て、キャリアで初めての大けがをしたんだ。2001年の夏に僕はヘルタのチームマネージャーのディーター・ヘーネスに2002年夏にバイエルンに移籍するという話をしたんだ。彼は僕に、パブリックの場でそのことについてコメントしないでほしいとお願いしてきた。半年間はこの話題が落ち着くまで時間を取ってほしいと。理解したし、僕もクラブに感謝をした。当時僕はドイツ代表に選ばれたばかりだったから。
でも何も言わないというのは大変だったんだ。毎日のようにファンやジャーナリスト、チームメイトから聞かれていた。そして10月にこのニュースが出た。まるで僕は裏切り者のような扱いを受けたよ。ベルリン中から嫌われるようになった。松葉杖をついて、スタンドから試合を観戦している僕に侮辱的な言葉が飛んできた。あのときすでに辞めなければならなかったかもね。
できることなら残りの半年間クラブのために全力でプレーしてから去りたかった。でも僕は負傷でプレーができない。あのころ自分の心の内を話しておけたらよかったのかもしれない。僕はひきこもる方を選んだ。誰からも距離をとるようになってしまった。僕の中の落ち着きを大事にしたかった。
3週間前に僕の写真を見たんだ。ベルリンにあるギリシャ料理屋さんに飾られていた。ヘルタ時代の同僚コスタス・コンスタンティニディスが持っていた写真らしい。レストランオーナーと一緒に撮った写真だ。この写真を見たの初めてだったけど、もう見てられないほどの写真だった。そこに写されていたのはいろんな痛みと問題を抱え込んでいる僕の姿だったんだ。あの頃の僕はそれがどういう状況かもわかっていなかった。うつ病状態だったから」
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