中野吉之伴フッスバルラボ

【きちルポ】福大サッカー部インカレ書類不備問題から考える。果たして厳罰とは必要なのか?

▼ 規則って何のためにあるのだろう?

福岡大学サッカー部が書類提出における不手際でインカレ出場が叶わなくなったという、なんともいたたまれないニュースを読んだ。SNSでも大きく騒がれている。いろんな人がそれぞれの視点で意見を出している。

ルールだからしょうがないと言われればそれまで。

「社会に出たら言い訳は通用しないから」という理屈だってわからなくはない。例えばサッカー界でいえば、移籍市場の締め切りは非常に厳密に定められている。それこそ1秒過ぎただけでアウト。過去にはFAXの故障で決まっていたはずの移籍話がご破算になったなんて話はそれなりにあった。それこそ一昔前であれば郵便事情の不備で話があらゆる方向に変わっていったなんてことはもっともっとあったのかもしれない。

「悪気はなかったんだ」「まさか壊れるとは思わなかったんだ」と誰もが言うだろうし、そうだったケースだって多いのかもしれない。でもそれがルールとして定められていて、誰もがそれをルールとして認知しているのであれば、それを遵守するのが求められることは間違いない。

「最悪の事態に備えて普段から準備をしておくこと」

これはスポーツ界であろうと、ビジネス界であろうと、一般的な僕らの社会における大事な約束事。

「夏休み最終日に慌てて宿題をする」「間に合わなくても何とか許してもらう」が通用するのは、それを受け入れて、あるいは前もって予測して《余白》を準備してくれる人がいるからだ。僕にしても記事の締め切りに仕上げきれずに、待ってもらうことがある。それも編集者さんがあらかじめ「仕上げきれないこともあるかもしれない」というところからの逆算で、一時締め切りを設定してくれるから何とかなっているだけのこと。

甘えといえば甘えである。

ただだからといって、「何もかもに妥協なく突っぱねる」「言い訳無用ですべて厳罰で対処する」というのもいかがなものか。人はミスや失敗を通じて気づくことがたくさんあるし、その中で学ぶ。そうした支えがあるからよりじっくりと取り組む環境を提供してもらえているということに感謝の思いを抱ける機会が大事なのだと思うのだ。

そしてそうした微調整の巧みさを育成年代の間にたくさん体験できる機会があるから、大人になって社会に出たときに、互いにリスペクトをもって、厳しさをもって、真剣さをもって、寛容さをもって、寛大さをもって、機微に富んだ関わり合いをもって、取り組むことができるようになるのではないだろうか。

ミスや失敗があった時にそれに応じた罰であったり、チームや仲間への貢献があるのはありだと思う。反省をするのだって大事だ。でも、どんなミスであっても変わらず大きな損害が被るというのはあまりにバランスが良くない。あらゆるミスや失敗は同等の重さがあるのだろうか。

今回でいえば、「書類提出が遅れた」と「チームとしての出場させない」はイコールで結ばれる重さなのであろうか、というのが論点だろう。

「次回気をつけます」だと、それを理由に時間厳守が雑になるというのであれば、それに見合う対処法を考えればいいのではないだろうか。書類提出が遅れたということは、それに関わる人間に落ち度やうっかりがあったことが要因だと考えられる。それならば例えば該当者が大会スタッフとしてフル活動し、時間厳守されないことがどれだけ大変で、時に迷惑なことかを学べる機会を作ってあげる方がよっぽどよくないだろうか。

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