中野吉之伴フッスバルラボ

【きちゼミ】サッカー”と”生きるって特別なことじゃない。生き方は誰かに決められることじゃない。僕らみんなが持っている権利じゃないか!

▼ スポーツは喜びで、楽しみで、心を解放させられるものだ!

久しぶりに拙著「ドイツの子どもは審判なしでサッカーをする」を手に取って読み返している。自分で書いておいてなんだけど、どれも素敵な話ばかり。別に宣伝文句として言ってるわけではなくて(苦笑)、自分で書いておいてそう思うのは、僕にしたって毎日毎日、こんな理想的な関わり方ができているわけではないからだ。

毎日がいつもそんな穏やかに過ぎたりはしない。どれだけ気を付けていても、生きていたらいろんなことがあるし、自分1人では抱えきれないことに襲われる時だってある。どれだけこうありたいと思っていても、その瞬間で理性が飛んでしまって、ついかっとなってしまうことなんてどうしたってある。

僕が思い描いている流れと子どもたちや奥さんが思っている流れがかみ合わないことだってある。「大丈夫」って口にしておきながら、体から出ている雰囲気は明らかに「大丈夫じゃない」ことなんて正直しょっちゅうだ。いやいや、難しい。

「いまだけは自分が取り組んでいる用事が大事なところで集中させて!」と思っているまさにそのタイミングで、子どもが「パパー!学校でこんなことがあったんだー!」と話しかけられたら、感情はぐらぐらに揺らぐ。そして、子どもたちはなぜかそういうタイミングで話しかけてくる才能を持っていたりする(笑)。

だから「ついイライラしてしまう」というのはある程度はしょうがないこと。人間だもの。そんなこともある。でも、「だから、しょうがないでしょ?」とすべてを流してしまうのもまた違うのだ。

ちょっと時間がたって落ち着いたら、そのことを子どもと話せるかどうかはすごく大事なことだと思う。

「大事な用事で気持ちがそっちにいたところだったんだ。大きな声出してごめんね。忙しい時はそういうようにするね。だからそういう時はまっていてもらえるかな?」

自分がどういう状況だったかを説明して、やりすぎたところを謝って、次にどうしたらいいかを相談する。

そして、こうした場面でのことを言うなら、「怒る」か「怒らないか」の2択ではなくて、「怒るにしてもどこまでにとどめておくのか」とか、「怒った後にどう次につなげるのか」というやり方を考えて、身につけていくことが必要ではないだろうか。

▼ インプット、アプトプットのバランス

これは家の中のことだけではなくて、指導現場、教育現場においても大切なスキルなはず。

自分の感情曲線を把握する。人間はある一定のラインを超えたら我慢しようにもできなくなる。だからその前の段階で、「心の非常階段」を持っておくことが必要。深呼吸をする。落ち着く時間・環境に身を置く。好きな音楽や本を読む。

先日息子の小学校で行われた心理療法士による講習会で学んだことだ。

忙しいとそうした余白を持つことができなくなる。全部を全速力でやろうとする。でもそうなると一つのつまづきが許せなくなる。許容できないイライラは外へ向けて発散される。無自覚にその対象は子どもたちになりがちだ。彼らは言い返せないからね。

だから、一日の間に少しでも一息つける時間を持つことは大切だ。自分のやるべきことを整理して、気持ちを落ち着けて、今からどうすればいいかを考える。そして1週間に一度はある程度まとまった振り返りの時間がほしい。

いや、毎日みんな忙しい。毎日みんな頑張っている。それはわかる。

スケジュールのやりくりは簡単なことではないだろう。でもまずはその中で定期的にインプット、アウトプットの時間を持てるようになってほしいなと思うのだ。自分一人で「あーでもない」「こーでもない」と考えるだけじゃなくて、周りにいる仲間と語り合える場があることで頭のなかと心のなかを整理するきっかけができる。

自分の周りに似たような価値観の人がいなかったら、今の時代SNSを通じていろいろと活動に参加することもできる。

日本におけるスポーツ環境をもっとよくしたい。
子どもたちが笑顔でスポーツができる環境を作り上げていきたい。
大人になっても変わらずそのスポーツが好きで、いつまでもやっていきたいと思う子を育みたい。

そんな大義を抱いて、いろんな試行錯誤をしながら、頑張っている方が日本人いろんなところにいるんだ。熱意なんて言葉じゃ追いつかないほど、子供たちの将来を真剣に考えている人たちがたくさんいるんだ。

だからつながり合うことが大切なんだと思う。どんな取り組みをしているかを参考にして、自分でもやってみて、そこでの活動を伝えていく。

ひとりじゃできないことでも、つながって、膨らんで、広がっていったら、動きになる。

今はちょっと新型コロナウィルスの影響で日本には帰れてないけど、毎年日本に帰って全国を回っていろんな人たちと交流を取ってきている中で、僕はそうした人たちの力を肌で感じている。

まだまだ大変なことはたくさんある。でも力強い芽が全国で生えてきてるのは確かなんだ。だからどんどん積極的に、勇気をもって、喜びを感じて、一緒に進んでいこう!

▼ 生涯スポーツのすばらしさとは?

この写真は昨年池上正さん主催のドイツ指導者研修旅行の時に僕がそっととっていた写真だ。この日のプログラムはU17ブンデスリーガの試合観戦。白熱した試合展開に満足してバスへと戻ろうといていた彼らだったが、そこでふと足を止めて、隣のグラウンドで行われていた風景に釘付けになった。

そこでは、60歳以上の人たちがミニゲームをしていたんだ。

みんな一生懸命で、チームとしてプレーをしていて、激しい指示の言い合いはあるけど、文句の言い合いはなくて、だれもが楽しそうにサッカーをしていた。クラブの人に聞いたら、毎週同じ時間に彼らはここでサッカーをやり続けているという。

素晴らしいパスで抜け出したFWのクロスをワントラップシュート。枠をとらえたそれをダイビングセーブ。

年配の方だから動きはもちろん速くはない。でもみんなサッカーを知っている。パスが回る。守備組織がしっかりしている。ゴールが決まったら全員で喜び、決められたら本気で悔しがる。サッカーが体に、頭になじんでいるのだなと感じさせられた。

夕暮れ時のグラウンドで、子どものように夢中でサッカーをしている彼らの姿から僕らは目が離せなくなっていた。この光景のすばらしさをみんなそれぞれかみしめていたことだろう。

「ドイツの子どもは審判なしでサッカーをする」のはじめに僕はこう書いていた。

サッカーは素晴らしいスポーツです。誰だって、できることならその世界にずっと関わりたい、最高峰の舞台で光り輝きたいと思うことでしょう。「我が子を、自分の教え子を、そうしたまばゆい光を放つ世界へ」と願う気持ちは十分に理解できるものです。

でも、そうしたサッカー”で”生きようとすることだけが正解でしょうか。それしか見えなくなると、大事なものを見失ってしまうのではないか。僕はそう考えます。

時間に追われ、レベルを高めることだけが目的となり、目の前の子どもの「本来の姿」と向き合うことができずに、ただただきびしいだけの競争という名のレールへ乗せようとする。そして、そのことに何の違和感も違和感もおぼえなくなっていく…。

ちょっと立ち止まって、思いだしてみてください。もしサッカーをしたことがある人なら、ただボールを追いかけているだけで楽しかった頃があるのではないでしょうか。いや、サッカーでなくてもいい。野球でも、バスケットボールでも、テニスでも、ピアノでも、絵画でも、ただの鬼ごっこや人形遊びだってかまいません。

好きという純粋な気持ちだけでのめりこんでいた時間が、どれだけ幸せだったか。

サッカーが大好きな子どもたちも、それを見守る大人たちも、サッカー”で”生きるのではなく、サッカー”と”生きることが何より大切だと、僕はそう思います。

これは、遠くどこかの国のおとぎばなしじゃない。

日本のサッカーを、スポーツを、子どもたちを愛する人たちが、彼らの将来に光を一緒にともしていこうと願い、祈り、そして実際に動いているところで描かれる確かな未来像だ。

一部の誰かにだけ許された特別な話ではないのだ。誰でもどこでもできる、僕たちが持っている確かな権利なのだから。

自分たちでできることから、ちょっとずつでも変えていこう。
自分たちが動けるところから、ちょっとずつでも動いてみよう。

僕もそのためにこれからも取り組んでいきたい。

【WEB講習会】「子どもたちが生涯サッカー”と”生きていけるために、僕たち大人はいま何ができるだろう?」

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