中野吉之伴フッスバルラボ

「サッカー文化」なんて語る必要はない。私たちが立ち位置と向かうべきところを真摯に探し求めていけばいい

 ▼「サッカー文化」という言葉がある。

・ヨーロッパや南米では「サッカー文化」が成熟している
・日本には、まだまだ「サッカー文化」が根付いていない

正直、私はこれらの言葉を好ましく思っていない。というのも、文化とはそもそも「ある」「ない」で考えるものではないからだ。「成熟している」「まだ未熟だ」という言葉も、別の何かと比較してどうこういうものでもない。

ただ、比較文化論というものはある。でも、それは互いの文化における相違点・類似点を分析することで、それぞれの土地で生じている傾向や嗜好を分析することに意味があるのであり、どちらかの文化の方が上だとか、優越をつけるためのものではない。

文化とは、積み重ねてきたそれまでの時代の結果として『今』そこにあるものだ。

日本のサッカー文化とヨーロッパのサッカー文化が違うのは当たり前。成り立ちも、発展も、社会の中での位置づけも全く違う。私たちが常識として捉えている作法、社会における人間関係のとり方、コミュニケーションの意味と意義も違う。サッカーというものに対する熱意も、捉え方も、その思いの表れ方も違う。別のものと思われるくらいに。

でも、「だからあっちが良くて、こっちが悪い」ということにはならない。日本サッカーの中で『これまで起こってきたこと』、『いま起こっていること』、そして『今後起こるだろうこと』は、日本の中でもそれぞれの地域とそこに住む人々それぞれで、良くも悪くも思いと好みと捉え方がストレートに反映されているものだ。

まず、ここを認知することが求められる。

でも、「だからOK」というわけでもなく、「だからダメ」というものでもない。そこはあくまでスタート地点でしかない。大事なのは、現状からの成長を常に目指し、自分たち自身が自分たちらしさをどのように捉え、どのような在り方を求め、どのような歩みを目指すかではないだろうか。

「ヨーロッパのサッカー文化」を手放しで称賛する必要もない。

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