荒岡修帆「大学だとマスターまでやって、研究がおもしろいと思ったらドクターコースに進むのも考えたりしますね」
中野「ライプツィヒに来る前、日本で準備をしてきてた? 部屋のこととか、語学学校とか?」
荒岡「いや、ほとんどしてないです。語学学校くらいですかね。というのも、僕がドイツへ行くことを考え始めたのがもう3月に入っていた時期なんです。日本を出たのが4月27日でした」
中野「1か月ちょっとじゃない? 時間がそもそもなかった(笑)」
荒岡「もう時間がなかった(苦笑)。こっちの大学に入学できるのが10月からだったんです。ドイツ語がゼロだったんで、一年半は最初語学でかかるとしても、その時の英語やドイツ語での情報収集能力が乏しかったので、『いま出ないとやばい』という危機感が強かったんです。だから、そこからすぐに休学届を出して、そこからライプツィヒの語学学校や飛行機の準備などをしてという感じです。なので、最初は知り合いもゼロでした」
中野「部屋はすぐに見つかった?」
荒岡「部屋は語学学校が斡旋してくれたので問題なかったです」
中野「来た頃、大変だったことはあった?」
荒岡「大変だったことですか? 最初は役所手続きですね。それこそ一人暮らし自体がはじめてだったので、その頃はまだドイツ語も全くだったので英語でやり取りしてましたが、英語を日本語に直しても何のことかわからないみたいな内容と向き合わなきゃいけないわけじゃないですか。大変でした。でも、それ以外だと、そんなには。幸い、語学学校に日本人がいたんで聞いたりできましたし。あと語学学校ってみんな一人で来るじゃないですか。なので、みんな状況は同じなのですぐに仲良くなれるというのもよかったですね。逆につらかったのは大学に入ったばかりのころです。こっちにかまってくれないですから」
中野「今はもう大丈夫?」
荒岡「だいぶ。それなりにドイツ語も多少はしゃべれるようになりましたし。でも、10か月しかドイツ語勉強していないので単語力も限られますし、一方、ドイツ人学生は20年以上母国語として使っているわけですから、それは全然違うわけです」
中野「そうだよね。語学学校通っていて、そこで使うドイツ語でしゃべっているときは『あ、俺かなりドイツ語しゃべれる!』って思うじゃない?」
荒岡「ほんとそうなんですよ!」
中野「で、大学に来てみると『え? 俺のやっていたのはなんだったの?』と衝撃を受けるくらいドイツ語の要求度が違うよね」
荒岡「ほんとそこで、どうしようって。その時に簡単にプライド捨てられたらいいでしょうけど、そうもできなかった分、自分の弱いところというか、直さなきゃいけないとは思っているんですけど、でも捨てきれないものもあったり。そういうのが重なってきつかったなと」
中野「本当はしっかりわかってないのに、わかってる風に立ち振る舞ってしまうとかね。授業の内容も友達との話もフワッとしたものとしてしか頭に入ってこない」
荒岡「そうなんです。最近はちょっとずつドイツ語力も上がったと思う時もあるし。そうなって話せるようになると、仲良くもなりやすくなります。そういう意味で大学生活は楽になりました」
中野「当時もっとしゃべれるようになるためにと取り組んだこととかはある?」
荒岡「そんなにないですね。大学でやらなきゃいけないことがありますし、あと語学の勉強自体がそこまで好きなわけではないので、ただでさえやらなきゃいけないことが多いのに、さらにドイツ語用に何かをというところまではキャパがなかったです。あ、でも最初の頃は大学のドイツ語コースはとっていました。あと語学学校にいた頃は、ドイツ語を扱うのが初めてだったのでどこに壁があるのかもわからなかったし、それがどんなものなのかもわからなかった。そこが不安でしたし、でもそれをクリアできないとやりたいことが始められない」
中野「最初の頃って何が間違っているのかもわからない手探り状態で進むから、怖さはあるよね」
荒岡「何も見えない(笑)」
中野「そこを暗中模索で乗り越えてやっとここからと思ったのに、とんでもなく高い山がそびえてたりする。僕なんかはその前で凹んだり、自暴自棄になったりした時期もあったけど、そういうのはあった?」
荒岡「引きこもったりはなかったんですけど、かなりメンタル的にはつらかったですね。つらいと日本語で話せると自分のことを話せるので、日本人呼び出して、話聞いてもらったりとかはよくしてました」
中野「そういうの大事だよね。山本さんがいたのもその頃?」
荒岡「山本浩(注:元アナウンサー)さんですか? えーっと、そうですね。ちょうど大学が始まった時期にこちらに滞在されていたので、山本さんのところにも1か月に1回くらいはお世話になりました」
中野「どこで知り合ったんだっけ?」
荒岡「友人が法政大学の出で、山本さんが法政大学にいらしたんです。ライプツィヒに一年間ほど研究休暇でくるという話がその友人から回ってきて」
中野「こっちで生活をしていると、日本だとなかなか知り合えたり交流持てない年の離れた人とか別ジャンルの人と知り合えるのがすごく楽しいことだなと思うんだよね」
荒岡「本当にそれはこっちに来てよかったなと思うことですね。日本にいたら理学療法かサッカー界隈の人としか出会えないですし、会えても同年代かちょっと上の人になります。こっちにくると音楽やインド哲学やっている人とかもいますし。あとは芸術関係ですとか、あとは同じサッカーでもそれこそ中野さんですとか、山本さんのような人に会えたというのはこっちにきたからこそだと思います」
中野「将来ビジョンはどんなのをもっているの?」
荒岡「まずはRBライプツィヒでU13以上のカテゴリーでコーチかフィジカルコーチとして働きたいですね」
中野「普通の指導者としてやっていきたいのか、フィジカルコーチとしてやっていきたいかは決まってない?」
荒岡「最初はずっとフィジカルコーチと思ってたんですけど、こっちのコーチってフィジカル的なこともできますし。最終的な権限を持っているのは監督ですし。そのあたりで『どっちがいいのかなぁ?』というのを考え出したのが半年くらい前ですけど、まだ答えは出てないです」
中野「僕のA級ライセンス取った時の同期にフランク・シュタインメッツという人がいるんだ。彼はもともとフィジカルコーチだったけど、今2部リーグのダルムシュタットでアシスタントコーチを務めている。そういう道もあるんだよね」
荒岡「結局どちらの知識も経験も大事になってくると思うので、両方やりながら求められたところというか、入れるところを見つけていくというふうにイメージしています」
中野「いまこっちで指導する上で、日本とドイツの違いって感じる?」
荒岡「日本のをそんなに覚えていないというのもありますし、日本で同じレベル・カテゴリーの子を見たことがないので、そこを単純に比較できるのかというのはあります。だから、日本の指導現場も見たいんですけど、年末年始とかで一時帰国すると大体休みです(笑)」
中野「それ、わかる」
荒岡「中野さんは日本とドイツの違いってザックリ言ってどういうのがあると思いますか?」
中野「ザックリした質問だね(笑)。違いか。やりたいことをやれるようになるために取り組んでいるのがドイツで、やらなければならないことを探しているのが日本」
荒岡「あー、それすごくわかりますね」
中野「あくまでも一般論だし、そうではないところももちろんある。でも、例えば子どもたちがサッカーに取り組む様子を見ていたり、学校での様子を見聞きしたりしていると、そうした違いがあるんじゃないかなと感じているよ」
中野「将来的に日本でやりたいんだっけ? こっちに残りたい?」
荒岡「こっちでやりたいです。あ、でも老後とか」
中野「そんな先のこと?(笑)」
荒岡「老後というか40代後半とか50代とかになってじゃないですかね」
中野「こっちでできることやって」
荒岡「アカデミーのダイレクターとかやれたらなとかは思ってますけど。育成にやっぱり興味があるので、いろんな年代をこっちで見ていきたいなと思っています。あとやりたいこととしてはどこかでブンデスリーガクラブの中に通訳として入れたらなと」
中野「日本人選手の通訳? そうね、誰かライプツィヒに来れば」
荒岡「そういうのにも興味はありますね。一度だけ通訳などのスタッフとしてトップレベルの監督の近くで働いてみたい」
中野「だったら、ドイツ語ももっと頑張んなきゃだね」
荒岡「そうですね。あとは大学のところだとマスターまでやって、研究がおもしろいと思ったらその後どこかでドクターコースに進むというのも考えたりしますね」
中野「いろんな可能性がある。ぜひぜひ頑張ってください。今日はありがとう。また今度いろんな話をしましょう」