中野吉之伴フッスバルラボ

ザマー「正しい人間性を持った指導者が必要だ。人間性とは人とのやり取りをうまくとることができ、人を導くことができる能力のことだと思う」

▼ここ最近気になっていることがある。

例えば、私はこのWEBマガジンをはじめ、様々なメディア媒体でドイツの現場からの情報を中心に発信している。取材でブンデスリーガやチャンピオンズリーグ、ドイツ代表に関する試合レビューや分析記事は可能な限り、実際にスタジアムで観察して気づいたり感じたりしている点を自分の視点でまとめて書いている。依頼を受けて、時に過去の取材データやネット上のニュースを引用して記事を書くこともあるが、そんな時でも自分なりに大事だと思う視点からそのテーマを取り上げて可能な限り掘り下げるようにしている。

指導現場での話は、実際にプレーヤーとして、指導者として、あるいは親として自分が体験したこと、耳にしたこと、口にしたこと、目にしたことを題材にしている。だが、よくよく考えると、私が本当に現場で起こっていることを書いているかどうかを証明することはとても難しい。

「指導現場でこんなことがあった」
「自分の教え子やその両親とこんな話をした」

そういうエピソードについては極端な話、誰もその現場にいないのだから、ウソかもしれない。あるいはすごく話を『盛って』いるかもしれない。そう思われても反証が困難な題材なのだと思う。私からすると「本当に現場に立っていて、本当にこうしたことがあったんですよ」と伝えることしかできない。それを信じてもらうために、相手に気持ちが伝わるように、本気で文章と向き合って、誤解がないように明瞭で、それでいて浅くならないように努力しているつもりだ。

ネット上ではいろんな肩書を持った人がいろいろな視点で、いろいろな解釈で、いろいろな考えをメディアやSNSを利用して語っている。基本的なところでこれはいいことだ。発信は自由だ。そこに資格が必要なわけではない。特にオンラインではそれが許されるからこそ、新しい議論も生まれる。新鮮なアイディアも出てくる。

一方で自分の中で疑念に思っていたことがあった。皆さんは「何をもってその人の意見や見解、理論が正しい、あるいは共感できる」という判断をされているのだろうか、と?  様々な情報、見識、解釈、意見、理論があふれるようにオンライン上には流れてくる。玉石混交とはよくいったものだ。そんな状態で無数の中から自分でフィルタリングしないといけない。

例えば、国外に出て本当にやるべきことと真摯に向き合い、現場で自分のクオリティを高めていこうと努力をし、成長している指導者や選手、トレーナーがいる。本物の実力を持った人たちだと思う。その一方で表面だけの人もたくさんいる。いや、そちらの方が絶対数はどうしても多い。

中には、指導現場に立ってもいないのに「指導者」としての発言をしようとする人がいるし、ドイツ語がしゃべれないのに「ドイツサッカーとは」を語ろうとする人もいる。1年足らずの滞在で日本に戻ってから「ドイツ流トレーニング」を表に出したスクールを開始する人がいる。

「日本でオランダのライセンスが取れます」
「スペインのライセンスがわずか3日で習得できます」

そういう見出しとともに高額の料金を設定するところがある。確かにそこで何かは得られるだろう。出してもいい人が出しているんだから構わないだろうという意見も間違ってはいない。だが、そこにそれだけの値段を出せるのであれば、5日間でも現地に渡ってグラスルーツサッカーを見学してきた方が得るものは格段に多いし、まっとうにやっている人に対してもう少し配慮はないものかとも思ってしまうのだ。

情報を前にしたときに、主観的な見方になってしまうのは普通だ。では、その主観的なフィルタリングはどう機能させればいいのだろうか。その情報が本当に有用なのかどうか、正しい判断ができているのかどうかの判断はどうすればいいだろうか。

「あれももっともらしいことを言っているけど、こっちももっともらしいことを言っている。いいとこどりをしていこうとしても、どんどん装飾が増えるばかりで肝心の主軸となるものが身につかない」

基準がぶれてしまうと悩んでいる方も多いかもしれない。私自身も今現在は、「確固たる軸がある」と信じているが、何かがきっかけで180℃全く違う考えを持つこともないわけではない。非常に悩ましいことだ。だからこそモノの見方、捉え方、考え方そのものを鍛える・改善するための取り組みについてつねに考えなければならないと思うのだ。意見そのものよりも、その人がなぜそのように考え、そのように論理立てるのかというプロセスの方にこそ、もっと目を向けるべきだと思うのだ。

私個人は、好奇心をもって様々な情報にアンテナを張り、探求心を大切に興味を持った話をそのままではなく自分なりに調べて検証する姿勢を持ち、これはと思った人の考え方や物の捉え方を大いにマネしてみる。実戦で試し、それを持ち帰りフィードバックをする。自分一人の視点だと気づかないことがあるから、いろんな人といろんな話をしてみる。自分のいるジャンルだけではなく、全く違うジャンルの人と会ってみる。そうした作業が自分の基準を作り上げるうえで欠かせないのだと思う。

自身も様々な人の影響を受けていた。ブンデスリーガの育成指導者、ドイツサッカー協会のインストラクター、地元クラブのベテランコーチ。あるいはプロオーケストラ奏者、料理人、数学者、楽器調律師、方角教授。トレーニング場でも飲みの場でも、その人の言葉遣い、言葉の強弱のつけ方、褒めるポイント、ストップをかけるタイミングを観察する。だが、言葉遣い、強弱、褒めたりストップをかけたりするタイミングが同じでも、誰がやるかで相手の反応は全く違う。

▼マネがゴールではない。

真似で終わっていてはいけない。真似ながら少しずつ自分の血肉にしていく。「いい反応だったかな? あれ、あまり響いてないかな? じゃあ今度はこんな感じで使ってみよう」。その過程を楽しみながらできるのが一番いい。そして、優れた指導者は選手との間とにポジティブな共鳴を起こすことができるというのを知るのが重要だ。これはサッカーの現場に限った話ではないはずだ。学校であっても、会社であっても、友人関係であってもそうした人物はその場の空気を温めるだけではなく、全体の能力を向上させることができたりする。

一例を紹介したい。

先日トップチームが4部リーグの所属するビクトリアケルンというクラブの育成トレーニングを視察させてもらった時のことだ。対応してくれたU8コーチのラースさんは「我々にとって最も大事にしているのは、子どもたちをリスペクトし、彼らがサッカーを楽しみ、その中で自身のサッカー感を養い、そのための手助けができるように取り組むことです。結果よりも大事なことがある」と話してくれた。

さらに「ドリブルに対してどう取り組みますか?」という質問に対しては、次のように答えてくれた。

「我々はクラブとしてボールを大切にするサッカーをしようとしています。そのために小さいU7から少しずつボールを蹴り出さないで運んだり、つないだりすることを伝えていきます。そうしたなかで相手といい形で1対1になったら勇敢にチャレンジするべきです。その気持ちをサポートするためには、チャレンジしてうまくいかないときに適切な支えとなってあげることが肝心だと思っています。『こうしたらもっと良くなるんじゃないかな?』『あっちにフリーの選手がいたけど見えていた?』『ボールの持ち方をこう変えたら取られにくくなるよ』。プレーの決断をするのはいつでも選手です。次にチャレンジする環境を作ってあげないといけない。U7、U8の子どもはそうした中でどうした状況だったらドリブル勝負をする方がいいのか、どの状況だったら大事にパスを使った方がいいのかを学んでいくわけです」

子どもたちがやりたいプレーを認める。チャレンジしたことをとがめない。だが、そこで終わりではなく、ヒントを与えていく。それは強制になってはならない。子どもたちが自分で決断できるような環境があることが重要なのだ。できたプレーには全力で褒めてあげる。褒めるとは言葉ではない。喜びの気持ちをストレートに口から出せばいい。借り物の言葉は耳に届かない。心からの叫びが選手に限りない勇気と自信をもたらすのだ。

実際に目の前で行われていたトレーニングではどの子も目を輝かせながらサッカーをしていた。怒鳴り声は皆無。次から次へとプレーを続けていく。止めたくないのだ。

早く次の練習がしたい!
もっとサッカーがしたい!
今度はもっといいプレーをして見せる!

こうした空気の中でトレーニングをしていると、子どもの動きが変わる瞬間に巡り合える時がある。コーチがふと指摘したことがきっかけで、それまでのぎくしゃくから解放されて、急に流れるようなプレーを見せることがある。そこに秘策はない。大切なのは子どもたちと向き合い続ける姿勢と伝え続ける意志と耐え続ける信念。それがなければ、トレーニング理論やスポーツ生理学、心理学といった知識も役には立たない。響かないからだ。

前回のコラムでも紹介したザマーの言葉をもう一度ここに記しておく。

「正しい人間性を持った指導者が必要だ。人間性とは人とのやり取りをうまくとることができ、人を導くことができる能力のことだと思う」

私は指導者として、情報を発信する側の人間として、改めてこうした姿勢を大切にしたいと思った次第だ。そして自分が主観的になりすぎていないだろうか、ものの見方・捉え方は大丈夫だろうかと自身の感覚をバージョンアップしていく努力をしていこうと思う。

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