中野吉之伴フッスバルラボ

子どもの成長に親はどのように向き合うべきか?過保護がもたらす弊害を考えてみた。

▼ 過保護はなぜいけないのか?

18年の年始に日本一時帰国時にとある場所でサッカークリニックを開いたときの話だ。

すぐ隣である大会が行われいた。どうやら 卒業を間近に控えた6年生の小学生最後の大会のようだった。僕は自分のクリニックの準備をしていると、隣からいろんな声が聞こえてくる。でも子供の声はほとんど聞こえない。指導者からの激、怒声、あるいは保護者からの応援、いや叫びだろうか。

「簡単に抜かれてるんじゃないよ!」
「どこにパス出してんだ!」
「キャー!キャー!遠くに蹴ってー!」
「頑張れー! 走れー! 守れー! 何とかして-!」

そのような声が試合開始前からずっとひっきりなしに飛び交っていた。ひっきりなしだ。大人たちの気持ちが何のフィルターも介さずにそのまま口から飛び出しているようだ。

子どもを思うからこそ本気でサポートしたいという思いがあるのはわかる。親なら当たり前だろう。

この試合に勝ってほしい。
大会に勝ち残っていい結果を残してほしい。
これまでの努力が報いられてほしい。

でも、その大人の熱さが子どもたちにとって負担になっていないだろうか。子どもを焦がしていないだろうか。燃やし尽くそうになっていないだろうか。

親の沸騰するような加熱した思いは、ドイツにだって普通にある。僕だって、我が子への思いは特別だ。自分の子どもがナイスプレーをしてゴールに絡んだり、それこそ勝利に貢献してくれたら天にも昇らんばかりにうれしい。

でも、それがないから「子どもがサッカーを楽しめない」というわけではないではないか。スタメンで出場できなくても、出場時間が少なくても、仲間から存在を認められ、自分の居場所があり、チームの一員として戦える場があれば、子どもはを「大切な場所と時間」と受け止めることができるのだから。

チームの勝利を一緒に喜び、チームの敗戦を一緒に悲しむことができる。それがチームとして欠かしてはならない大事な大事な一歩だと思う。そしてそれを支えるのが親の役割ではないだろか。

▼ ドイツで取り組まれている”熱すぎる”親対策とは?

ドイツでは、特にここ5年ほど少年サッカーの親に対する啓蒙活動に力を入れているように感じる。

例えば「Das ist doch nur ein Kinderfußball!!(これは”ただの”子どものサッカーなんですよ!!)」というキーワードで「子供の試合の主役は子どもなのだ」ということを各地方のサッカー協会がアピールしている。

例えば先日近所のクラブ主催で開催された小学校低学年のワンデイ総当たり戦では、大会前にアナウンスがかかった。

「試合中、チームの指導者以外はピッチ内に入らないでください。ご両親の方々はどうか柵の後ろからゆっくりと落ち着いて観戦してください。汚いヤジを飛ばさずに、温かくサポートしてあげてください。

親も、指導者も、子供にとって見本的な存在でいましょう。そして、子どもたちの試合を子どもたちにさせてあげてください」

こうしたアナウンスを聞いて、実際どのように親は感じるのだろうか。そうはいっても感情的になってしまうからしょうがない?そこまでひどいことはいっていない?そう思う親が多かったら、どれだけ訴えても何も変わらないかもしれない。

でも、多くの親は親として、自分たちがわが子のため、そしてわが子が楽しくサッカーをしている仲間のために、できることをしてあげたいという思いもあるはずなのだ。だからこの日の試合会場では、グラウンドから子供たちの声ばかりが聞こえてきた。

もちろん時に仲間と喧嘩したり、イライラして叫ぶ声もあったけど、子どもたちはみんな楽しそうにサッカーをして、笑って、喜んでいた。そしてピッチ外にある策の後ろから、ご両親はみんな一歩引いて温かく見守ろうとしていたのだ。

これはドイツだからの話?サッカー文化があるからの話?スポーツの解釈が違う国だからの話?

そうではないのではないか?

だって、サッカーがとか、歴史がとか、文化がとか、そういうことではなくて、

人として大人が子どもに見せるべき、とても本質的で、基盤となる立ち振る舞い方の話なのだから。

やるかどうか、できるかどうかの話ではなくて、

そうであるようにリスペクトを持って取り組まなければならない話なのだから。

違いますか?

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