石井紘人のFootball Referee Journal

【無料記事】連載:もう一つの日本代表 ~世界で戦ったレフェリー 丸山義行 第二回

連載:もう一つの日本代表 ~世界で戦ったレフェリー 丸山義行 第一回

1946年になるまで“現在のような17条の協議規則”は日本には伝わっていなかったと言われている。

その最たる例として語られるのが、当時の日本サッカー界にあった“認定ゴール”と言う規則だ。これはフィールドプレーヤーがシュートを手で止めた場合、止めてなければゴールだったと判定されるとゴールと見なされるというルールである。

1953年に行われたFIFAの審判講習会で、とある日本人が「このルールはなくなったのか?」と質問したら、「そんなルールはずっと前にちょっとテストされたことがあったが、ルールには入ったことはない」と参加者から笑われたと言うエピソードを聞いたことがある。

上述した対角線式審判法も、1936年のベルリンオリンピックで日本の選手たちが「こんな審判法がある」と帰国してから広めるという摩訶不思議な伝わり方だったらしく、決して日本の審判という組織が確立されていたわけではない様子が伺える。

 

ただ、これには理由もある。

スポーツジャーナリスト牛木素吉郎氏と浅見俊雄元日本サッカー協会(JFA)審判委員長の

牛木:「ルールブックは、昔から確かにチームには送られてきていましたが、市販はされていません。旺文社がスポーツルール集を出そうとしても、そのまま載せる事をJFAは認めない。当時おかしいなと思っていましたが、今でもそうだとのことです。それはどういうわけでしょうか(笑)」

浅見:「JFAに登録した人の権利として競技規則をもらえる、これでその傘の下でサッカーをやるという仕組みになっていると理解しています。」

というやりとりを読んだことがあるが、以前の日本では“ルールブックを読むためには、JFAに登録しなければいけない”というハードルが設けられていたのだ。書店に行っても、サッカーのルールを確認することはできない(現在はJFAのホームページから閲覧できる)。JFAですら正確なルールを理解できていなかったのに、そんな状況では、日本各地がより遅れをとるのに拍車をかけてしまう。アジアという地域の島国、そしてJFAの姿勢。様々な要因が審判員のレベルアップの弊害となっていた。

 

「中央大学では、FWとしてプレーして、卒業後は、小野さんのコネクションで大学付近にあるミクニ商会という個人商店に就職した。午前中は仕事をして、午後は大学でコーチとして活動をして。当時は日本リーグもなかったから、サッカーに関わるには、教員になるか、就職してボランティアでやるかしかなかった。ちょうどこの頃、小野先生のすすめで卒業してすぐの1954年に審判員の資格もとったんだ。自分のなかでは、メインはコーチだったんだけどね。」

 

―この頃、世界では審判員の重要性が議論されていました。第二次世界大戦後の1958年、世界のリーグでは、審判員の質のさらなる向上が求められていたようです。1958年にIFABの構成が変わり、イギリス四協会と肩を並べたFIFAが、主導権をもって規則の改正を行える体制になりました。それもあり、1960年に入ると、FIFAのラウス氏が、審判員の技術を伝えるために世界各地で講演を行っています。それは東京でも開催され、主審と線審の協力関係、コーナーキック、フリーキック、ペナルティーキックなど審判員が取るべき様々なポジションについての議論やデモンストレーションが行われたらしいのですが、記憶にありますか?

 

「なんとなぁく、そんなことがあった気がするけど、明確には覚えてないなぁ。審判に対する興味ってそんなもんですよ。たとえば、皆さんも審判講習会とか行きますよね。誰がどんな話したかなんて、よほどの興味がないと覚えていないでしょ。当時の人たちで、この講演を覚えている人っているのかなぁ。というより、審判をそこまで深く考えていなかったから。」

 

―なるほど。けど、丸山さんはこの頃、1961年に国際審判員に認定され、1962年には日本代表×ディナモ(ソ連)戦の主審を務めましたよね?

 

「小野先生にうるさく言われたから(笑)。審判は重要なんだぞ、ってずぅっと。重要性を説いてくる。それもあって、1964年東京オリンピックでは副審も務められたんだろうね。」

連載:もう一つの日本代表 ~世界で戦ったレフェリー 丸山義行 第三回

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