石井紘人のFootball Referee Journal

再び北朝鮮代表に 第一章

「おぉーい、ここだ、ここ。」

 

タクシーから降りると、いつもの夏嶋隆の声が聞こえた。

 

静岡御殿場にある時之栖が運営する裾野スポーツセンター。全少が行われる広大な敷地の中央にクラブハウスがあり、その2階に夏嶋は根城を構える。

だが、必ずしも、そこにいるとは限らない。

ある時はホテル時之栖の隣にあるグラウンドで大阪体育大学をコーチし、ある時は中山雅史と自転車で外を走りに行く。

この日は、根城の真下にあるグラウンドで、遠目からも礼儀正しい姿勢が伝わってくる若者とトレーニングを行っていた。

 

グラウンドに入って近づいていくと、若者だと思った選手から円熟味を感じた。それもそのはず。礼儀正しく立っていたのは、若手ではなく、私と同世代であり、かつ代表経験のある選手だった。

 

李漢宰(ハンジェ)。元北朝鮮代表だ。

 

なぜ、ハンジェがここにいるのか?私は、頭の中のサッカー情報をフル回転させた。

 

 

私が知るハンジェのサッカー人生は、順風満帆そのものだ。

広島朝鮮高級学校を経て、2001年にサンフレッチェ広島に加入し、20025月にナビスコカップで右SBとしてプロデビュー。2003年になると、ボランチとしてスターティングメンバーにも名を連ねる。

日本での活躍を受け、2004年には北朝鮮代表に招集され、2006FIFAワールドカップ・ドイツ大会アジア1次予選のイエメン戦でゴールを決めた。その勢いのまま、アジア最終予選の日本戦、イラン戦、バーレーン戦に右アウトサイドとして出場する。その輝きは所属クラブの広島でも変わらない。

2007年には出場機会が減ったものの、2008年、J2降格による駒野友一の移籍に伴い、再び右アウトサイドのレギュラーに。J1昇格に貢献した。

 

しかし、2010年以降はJリーグのピッチで見ていない気がする。きっと、それがここにいる理由なのだろうなと察した。

 

ビンゴだった。

 

2009年に北朝鮮代表冬季強化合宿メンバーに選ばれたが、膝が本調子から遠くなっていく感覚があったという。

そんな中で、所属する広島に、ミキッチという強力なライバルが現れる。その争いに敗れたハンジェは、同年末に戦力外通告を受けてしまう。

そこから、コンサドーレ札幌へ移籍をするが、右膝の怪我はいっこうによくならない。結果、契約満了により退団に。そんななか、救いの手を差し伸べてくれたのが、広島時代の恩師でもある今西がゼネラルマネージャーを務めるFC岐阜だった。

しかし、FC岐阜加入の初年度、2011年は怪我との戦いだった。

 

そんなハンジェに声をかけたのが、服部年宏だ。

 

先日、日本サッカー協会(JFA)・スポーツ医学委員長の福林徹医師が『報道ステーション』に取り上げられた。

簡単に内容を紹介すると、「X脚は足を怪我することが多く、いかに早くリハビリで復活させるかを我々は追及している。結果、屈指のシステムを構築できた」というものだ。

 

夏嶋は、こういったJFAの理論に異を唱える唯一のトレーナーでもある。

 

「なんでX脚を治さない」

という、そもそもの部分の改善をテーマとしている。ゆえに、異端として扱われてしまうが、至極真っ当な意見である。とは言え、サッカー界のスタンダードではない。

それもあり、日本代表選手としてJFAと関わってきた選手たちのなかには、所属クラブでリハビリをせず、夏嶋の元でリハビリをする選手もいる。

 

その一人が“鉄人”、服部だ。

服部は、サッカー界の理論を熟知しており、夏嶋の理論を受け入れられない選手が多いとも予想している。そのため、「受け入れられる、頭の柔らかい選手」としか、御殿場には来ない。一緒に来たうちの一人が、“ゴン”と呼ぶ中山である。

FC岐阜で、ハンジェとプレーした服部は、ハンジェにクレバーさを感じのか

 

「一緒に御殿場に行くか?」

 

と声をかけ、服部が橋渡しとなり、ハンジェは一週間の合宿を夏嶋の元で行うことになる。

 

私が足を運んだのは、その中日だった。

 

 

「飲みに行くか」

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