ウズベク後 前編
昼食をとりながら、栃木訛りで談笑する姿は、ピッチにいる彼とは結びつかない。実際に目をひくのは小柄でおっとりした雰囲気。2005年に世界中を駆け巡ったニュースの主役となる険しい表情をした写真とは、似ても似つかわなかった。
その“サッカー史に残る”ニュースの前日、2005年9月3日、吉田寿光は、ピッチの上で暑さに苦しんでいた。
「あの試合のことですか。正直に言うと、その日はね…」
2004年にJリーグ優秀主審賞を受賞した吉田の目標は、2006年のドイツW杯のピッチに主審として立つことだった。最大のライバルとなったのが、同じ歳の上川徹(当時:PR:プロフェッショナルレフェリー:日本サッカー協会(JFA)と契約するプロの審判、現JFA審判部委員長)。何の因果か、吉田はこれから世界で高い評価を受ける男と同じ歳に生まれてしまっていた。そして、二人の上にはフランスW杯に選ばれた岡田正義(当時:PR、現JFAトップレフェリーインストラクター)がいた。
二人にチャンスが巡ってきた時には、互いに、年齢的にもラストチャンスとなっていた。吉田にとって、大きすぎる壁が立ちはだかっていた。
上川は、元々、フジタ(現在の湘南ベルマーレの母体)の選手である。怪我もあり、選手としての道を諦め、そこから審判の道に入る。一方で、吉田は、筑波大学でトップ(日本リーグ)の選手を目指すものの、「思うようになれなくて、地元に帰って教員になり、子供達を教えることにした。そこで、先生に連れられて審判の試験を受けたことがきっかけ」となり、審判員となる。
上川が審判員の難しさに快感を覚える反面、吉田は「審判の研修会などで、まだ若かったですから、体力テストなどで常に1位になることができ、そこから快感になり審判にはまりました」。
対照的な道を歩いてきた二人が、ドイツW杯という一つの目標で交わる。
膝に爆弾のある上川と違って、吉田は健康そのものだった。アドバンテージは、吉田が手にしているように思えた。しかし、05年8月に肉離れを起こしてしまう。
「思いの強さが生んだ焦りからかもしれないですね。あと、この怪我では、ドイツW杯候補には入れないなとも思いました。」
この怪我で、吉田は上川との争いを諦めるが、国際審判員としての割り当ては続く。吉田にとって2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 5位決定戦・ウズベキスタン代表×バーレーン代表戦は、誤解を承知でいえば、
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