川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】藤本主税(ロアッソ熊本コーチ)「先生は絶対に僕を見放さない。そう確信して生きて来ました」/川本梅花アーカイブ

目次
父が残した多額の借金
藤本を支えた恩師との出会い
11人の中の1人
レギュラーポジションをつかむ
先生は絶対に僕を見放さない

父が残した多額の借金

藤本 主税の父親は、若くして亡くなった。原因は、交通事故によるものだ。父親が死んだ時、藤本はまだ1歳にもなっていなかった。当然、父親との思い出は全く記憶にない。自分の家に父親という存在がいないことに気づくのも、ずっとあとになってからだ。父親は生前、会社を経営していてレジャーのために船を買うなど、周囲からは順調な暮らしをしていたように見えた。

しかし、内情は違っていた。

父親が残したものは、難しい経営状況から生まれた多額の借金だった。藤本がプロになろうとした最初の動機は、プロになって父親の作った借金を返して母親を楽にしてあげたいという思いから起こっている。

「小学校6年の時に、Jリーグができるんだと初めて知ったんです。それから僕は、自分がプロになるんだと決めました。藤本家は、父親が死んだ時に、すごく借金を抱えていたんです。母は、姉と僕を育てながら借金を返さないとならなくなった。だから、朝早くから夜遅くまで働いていました。昼は会社に勤めて夜は家政婦をして、家にいる時は縫い物をする。姉は、高校を卒業するとすぐに働いて、給料を借金の返済に充ててくれた。姉は、会社から帰ってきたら家事をしてくれる。そこに母が帰ってくるという毎日でした。そういう母と姉の姿を見ていて、父の借金を返すのが僕の役割だと思ったんです。そのためにプロになるんだ、と」

プロになるためには、スカウトの目に留まらなければならない。それには、全国大会に出場できる高校を選択する必要がある。実は、藤本が入学した高校は、第1志望ではなかった。その頃の藤本は、選抜代表や日本代表に選ばれるなど、全国に名前が知られる中学生だった。そして、どういう環境のもとでサッカーをすればプロの選手になれるのか、という予想図を描いていた。

「僕が中学3年の時に感じたものは、自分を追い込んでいける環境の中に身を置いて、しんどん練習をすればプロに行けるんだ、というものでした。当時、徳島県の高校サッカーは、徳島商業高校と徳島市立高校の2強だったんです。商業高校の方は、朝の練習もあれば夜は遅くまでやっていました。走って、走ってというチームでした。市立高校の方は、サッカーは11人でやるもの、その11人が連係を取りながらゲームを作っていく、という戦術を中心にした指導が行われていました。両校を比べてみて、僕に合っているのは、間違いなく商業高校のやり方です」

藤本を支えた恩師との出会い

藤本が入学したのは、商業高校ではなく市立高校の方だった。市立高校を選んだのには、とても大きな理由がある。ある1人の指導者との出会いが、ひとつの選択を決めさせたのである。その人は、のちに藤本の人生を導いてくれる生涯の恩師となる人で、当時、市立高校サッカー部の監督であった逢坂利夫である。

中学3年の夏、逢坂は、藤本にコンタクトを取ってきた。逢坂が藤本に会う目的は、当然、市立高校へのスカウティングにあった。「逢坂先生には、日本代表とか選抜に呼ばれた時に、何度か声をかけてもらっていたのですが、僕は市立高校に行く気はなかったので、なんて断ろうかと母親に相談していたんです」と当時の心境を語る。

藤本は、逢坂にまず自分の境遇を話す。父親がいないこと。母親が女手ひとつで姉と自分を育ててくれたこと。大学に行くつもりはないこと。プロになることしか考えていないこと。プロになってお金を稼いで母親に早く楽をさせたいこと。そうした内容を淡々と語った。そして、藤本の話を聞いた逢坂は号泣する。「目の前で大人が泣く姿を見たのは、初めてだったのですごく驚きました。先生の涙は、僕ら家族のがんばりを認めてくれた証しなんだと感じたんです」

藤本の置かれた状況を把握した逢坂は、次の言葉を語りかける。

「私が主税を絶対にプロに行かせてあげる」

藤本は、逢坂のこの言葉を信じて、市立高校への入学を決心する。

11人の中の1人

小学校の頃の藤本は、どんな子どもだったのか。彼は「サッカーバカでした」と話す。子どもの頃からドリブルが得意で、現在の彼の技術は、すでに小学生の時に身につけたものだ。

「無理をさせて母親に買ってもらったコーンを道路に並べて、ドリブルの練習をよく1人でしていました。そこは公園の前の道路だったので、街灯が照っていて夜も練習しました。右にまたいで左に抜くというドリブルが得意なんですが、実はその時の練習で習得したものなんです」

さらに性格に関しては「周りの空気を読めない子どもでした」と話す。

「夏休みとか、みんなが遊びたい時間なのに、昼からランニングをやろうよ、と言ってみんなを集めてひんしゅくを買ったりしたんです。空気が読めない的な存在でした」

「サッカーバカ」と言えるほどのひた向きな姿は、時に仲間からの反感を生んだりもした。

「小学5年の時に、いじめられたんですよ。無視というヤツですね。『主税を無視しようぜ』といったリーダーは、ずっと仲が良かったヤツなんです。だから、自分から彼に『なんでだ!どうして無視するんだ』と言いに行ったんです。直接彼に話に行くことは、すごく勇気のいることだったですが、言いにいって良かったと思います。なぜなら、それ以降彼とは大親友になり、いまでも連絡を取り合っています」

藤本という人間は、不思議な魅力を持っている。一本気で負けず嫌いで、仕切り屋で、泣き虫で。そして人に対する愛情深さがある。彼の愛情深さは、人に愛されたことがある人間でなければ、持てない類いのものだろう。彼が持っている愛情は、母親や姉や友人、さらに逢坂という指導者から得たものだろう。

市立高校に入学した藤本は、1年生ですぐにインターハイの県予選にスタメンで使われた。しかし、インターハイ本大会を境に出場機会を失ってしまう。自分のプレーはチームにマッチしない。彼はそう実感していた。

「中学の頃にやっていた天狗サッカーでじゃないんですが、なんでも自分でやろうとしたんです。高校生だから相手も身体がでかくて、動きを押さえられていた。自分のプレーがあんまりうまく行かなかったんで自信を喪失してしまって…実は、何度も何度もサッカーを辞めようと悩んでいたんです。なかなか市立のサッカーに馴染めなかった。このままじゃプロには行けない。そんな時に、先生やチームメイトが声をかけてくれた」

逢坂は、試合に出られない藤本にいつも言っていたことがある。

「1人でサッカーはできないんだよ。要は11人の中の1人なんだから。それを理解できなければ試合に出すことはできない」

レギュラーポジションをつかむ

肉体的にも精神的にも追い詰められていた藤本に、逢坂は、「がんばるな」と言う。ある時は、「休め」。別な日には「はよ帰れ」。「力を抜け」。「疲れて練習しても意味がない」。そうした言葉を逢坂は語りかける。

藤本が高校サッカーで学んだことは、「理にかなったことをしなければいけない」というものだ。ある日の練習で、藤本の背後から3人の選手がプレッシャーをかけてきた。彼は、相手を背負ったままターンして抜こうとした。逢坂は、ゲームを止めて藤本を呼び寄せる。「近くに味方がいれば、そいつにパスをすればいい。FWがゴールを取れない時は、ゴールに近い選手がゴールを取ればいいんだよ」

悩み苦しんでいた藤本にチャンスが訪れたのは、高校2年の春、山口県宇部市で行われた大会だった。その大会には、鹿児島実業高校などのサッカー強豪校も参加している。宇部市は、藤本にとって思い出深い土地だった。幼少の頃から住んでいた生誕の地である。

「不思議な巡り合わせだったと思うんです。自分の出身地に戻って来てサッカーをやれるというのは。それに、その時初めてなんですが、市立高校のサッカーに、自分のプレーが『ハマった』と感じたのは。その日からレギュラーになれました。ボールを持ったら簡単に味方に落とす。人を使ったり、人に使われたり。11人の中の1人になれた。そう実感できました。『先生がいつも話してくれていたのはこのことだったんだ』と確信しました」

人と人の絆を結ぶことができる1つの手段としてコミュニケーションがある。黙っていては、その人が何を考えているのかさえもわからない。どんなすばらしいことを考えていても、人は言葉に出して相手にメッセージを伝えないと理解できないことがある。逢坂は、言葉がどれだけ大切な道具なのかを知っている。だから、どんな時でも彼は、藤本に言葉を投げかけた。

「僕が元気がない時は、先生はいつも声をかけてくれました。それは、グラウンドの外でも内でもです。サッカーに関しては、戦術の話をしてくれました。そう言えば、テスト中、僕が早く答案を書き終えていたんです。しばらくすると僕を黒板の前に手招きして。『この場面は、こういうプレーが必要だからな』と戦術の話をしたこともありました」

先生は絶対に僕を見放さない

逢坂は、「私が主税を絶対にプロに行かせてあげる」と言った言葉に責任を持つ。藤本が3年生になると、まず、サンフレッチェ広島の練習に参加させる。次に、アビスパ福岡の強化部長を市立高校の練習に招く。藤本のプレーを見て、すぐさまオファーを出す。小学5年生の子どもが描いた夢がこの時に実現する。

自宅から高校までの18キロの道のりを、足に2キロのおもりをつけて3年間続けた自転車通学。母は、「サッカーの神様はサッカー以外のところでも見ているんだから、普段もちゃんと生活しなきゃダメよ」と言う。プロになってクラブには、給料を母親の口座にすべて振り込んでもらって、生活に必要な分だけをもらう。そうやって続けた結果、父親が残した借金を返し終えた日。こうした思い出の日々は、逢坂によって藤本の脳裏に深く刻まれることになった。

藤本は「僕は先生の息子だ。先生は絶対に僕を見放さない。そう確信して生きて来ました」と話す。

徳島県立阿波高校を最後に定年を迎えた逢坂の誕生日にビデオレターを送った。感謝に満ちた飾り気のない美しい言葉があった。

「逢坂先生がいなかったら、いまの僕はありません」

川本梅花

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