三浦俊也(FC岐阜監督)【ノンフィクション】 プロでの選手経験がない人が監督になって経験したこと(第2回)【無料記事】
目次
■2度の監督就任で学んだこと
■J2からJ1へ悲願の昇格を決める
第2回
■2度の監督就任で学んだこと
2001シーズンは大宮アルディージャを率いた三浦 俊也にとって、厳しい1年間になった。「もし」という仮定法が使えるなら、こんなことが言える。「もし、バルデスがケガをしていなければ昇格できたのかもしれない」と。パナマ代表、コンサドーレ札幌でプレー経験があったバルデスは、ケガをするまで18試合で21得点という爆発的な得点力を誇った。三浦は「2年目の中で影響が大きかったのは、バルデスが骨折して試合に出られなくなったことだった」と打ち明ける。さらに三浦自身も「バルデスがいたら昇格した」と考えることがあるという。しかし仮に昇格していても、当時のメンバーならば「1年で簡単に降格したかもしれない」と付け加える。
三浦は、2001年をJ2リーグ4位、2002年は5位の成績を残して大宮を退任する。J1への昇格という結果が出させなかったことから「自分が責任を取った」と話す。大宮がなぜ昇格できなかったのか、三浦は回顧して次のように話した。
「原因は、バルデスがいなくなって点が取れなくなったから。当時、メディアはこんな風に言っていた。『点が取れなかったら、チャンスを増やしてチームみんなで取ればいい』と。僕もその時はそうかなって思ったんだけど……。ところが実際やってみると、チャンスはあるんだけど、点を取れない選手にいくらチャンスが巡ってきても、取れないっていうのは変わらなかった。それは、バルデスがいなくなってから分かったことなんだよ。逆に、チャンスを増やすということは、リスクも増えるわけだよね。その結果、失点に繋がってしまう。バルデスがいなくなってチームの何が分かったのかというと、チームの守備に関しは優れていることがはっきりした。守備的な面はきちんとオーガナイズされていたものだから、守備的な面で押した方がもっと成績を残せたかもしれなかったね」
この三浦の発言は、日本サッカー界全般に言えることではないだろうか。強力な得点力があるFWがいないなら、チャンスをできるだけ増やしていけば、そのチャンスに比例して得点力が増えていくと考えることができる。これは、普遍的な真理のように見えてしまう。しかし、三浦は、もともと得点力がない選手なのに、チャンスを増やしたからと言って、シーズン5得点がマックスな選手が、急に2倍の10点を取れるようにはならない、と述べる。ましてや、チャンスが増えるならば、チームが前がかりになって攻撃しているので、相手にディフェンスラインの背後を突かれる場面を作ることになる。スペースを使われて失点する機会も同時に増えてしまう。
三浦は、次のような考えは日本サッカー界に「根付かないし理解されにくい」という。「日本では、守備的なチームは魅力がないとメディアなんかは言うけれども、逆に言えば、〈勝てば〉いいわけじゃない。横浜F・マリノス時代の岡田(武史)さんを例に挙げると、久保(竜彦)が骨折して、アン ジョンファンが欠場しても浦和に勝ったじゃない。まさにあの時は、守備の強さを前面に出して優勝したんだよね。要するに、自分たちの強い部分を前面に押し出してやった方いい、というのが2年間で分かったんだよね。足の遅い選手に『速く走れ』というのはすごいストレスになると思う。点の取れないFWに『点を取れ』と言っても同じことだよね。だったら、自分たちはここが強いから、ここを強くしてくれ、そうしてそれを自分たちのよりどころににする。そのやり方の方が、ベターなんだと知った」。
最初の大宮での2年間を「経験不足だった」と三浦は自分を戒める。彼は、チャンスを増やして得点を奪う形を、バルデス負傷の後に試みた。しかし、結果はついてこなかった。だが、こうした経験は、2004シーズンに監督に復帰した三浦は、2006年までの3年間、采配を振るうことになる。そして2度目の就任をした最初の年に大宮の悲願であったJ1への昇格を決める。大宮にとっては、Jリーグに加入して6年目の歓喜だった。そして三浦本人にとっては、前回監督を引き受けた時のリベンジとなり、J1で指揮するチャンスを掴んだのである。
2回目の監督オファーは、佐久間 悟(当時は大宮GMだった)から連絡が入る。清雲 栄純は第一線を退くことになり、2年間チームを率いてクラブ事情もよく知る三浦に再び声がかかった。「僕がいた時よりも、成績が落ちていた」というクラブをどのように再生させるのか。全ては三浦の手腕に託された。
三浦は、1回目の時よりも自然に、選手に接することができたという。そして、冷静にチーム全体を見渡して選手の適性を観察するようになっていた。彼は、ある点においてピムさえも反面教師に捉えられるようになっていた。「ピムを見て思ったことがあって、よくない部分を繰り返し、直そうとしていたんだよね。だから、点が取れない選手は、やっぱり点が取れない。25歳を過ぎた選手はあまりうまくならない。そうした点に時間をかけてもプラスには働かないんだ」という持論で選手に接するようになった。
監督にとって需要なことは、対戦相手とどのように戦うかである。さらに、相手によって選手起用や戦術が変化する。つまり、ゲームプランに見合った選手と戦術を採用すればいい。もしも、起用した選手に短所があれば、そこは目をつぶって長所に目を向ける。その選手がヘディングが弱かったとしても、それを別の部分で補うものがあれば試合に使う。1回目の監督の時よりも2回目の監督の時の方が、「選手の短所に目をつぶれるようになった」と自身の変化を述べた。
このように、ある程度割り切って考えられるようになることで、三浦本人も楽に仕事ができるようになったと告白する。「日本の選手は、基本的にほとんど真面目だからね。例えば、左足で蹴るのが不得意な選手はそんな簡単にはうまく蹴られるようにならない。蹴れないものを蹴れるように練習しろ、とプロの選手に言うのはやめたんだ。彼らは一生懸命やっているんだから、できないものはできないと、目をつぶったら楽になったというか……。選手と向き合えたというかね。それよりも、モチベーションをいかに高く持って試合に臨める状態を作ってやれるのかが大事なことだから」と説明した。
2回目の監督就任には、当然1回目の監督経験が役立っている。三浦は、過去の経験の中から反省点を見付け出す。それは、前述した通り、選手のより点を見つめて、よくない点は考えないという視点の転換だった。選手は、自分の短所を克服しようと考えて日々練習に取り組む。しかし、25歳の選手が猛練習を繰り返したところで、彼の短所は急には克服されない。ましてや、プロ契約の選手は結果をすぐに求められるので、短所を長所に変えるほど練習する時間に制限がある。そうしたことが現実として横たわっているのに、短所を克服しようと毎日練習しても、焦りから選手自身ストレスを抱えることになる。結果的に、よい部分も削られかねない。
三浦は、西村 卓朗(現水戸GM)と波戸 康広(現横浜FMアンバサダー)のプレーをもとに説明をする。まず西村に関して「レッズにいた時は彼のことは分からなくて、大宮に来てから卓朗はヘディングが強くないことが分かった。彼も試合に出るようになってからいろいろ分かったことがあったと思う。その代わり、ドリブルが彼の長所で、そういう部分が得点に繋がれば使う。卓朗は真面目だから、ヘディングの練習をしていたけど、若手でもないのに毎日苦手な部分を克服しようと練習してもストレスになるだけなんだよ」。
次に波戸については「ヘディングのことで言えば、相手と競り合わない場面があって、本人に『あれじゃ使えない』と告げたことがあった。波戸にそう言ったのは『力を抜く時は抜く』みたいな雰囲気を出したところを言ったんだよね。彼ならもっとできると思ってさ」と述べた。
■J2からJ1へ悲願の昇格を決める
大宮で2度目の監督をはじめるにあたって、三浦は前年(2003年)に活躍した中心選手を基盤にチーム作りに着手する。開幕当初は、GKの安藤 智安、センターバックの奥野 誠一郎とトニーニョ、MFに安藤 正裕、FWに2003年にリーグ戦22得点を叩き出したバレーを従えてスタートした。「まったく新しいチームで行くよりは、守備はもともと強かったから中心のところを変えずにと考えた」。バルデスのケガで得点力が落ちた1回目の監督経験を考慮して、得点力のあるFWを探す必要があった。三浦は、バレーの相棒としてダニエルを連れてくる。
しかし、ダニエルはまったく機能せずに、5試合で解雇された。「ダニエルは、シーズンがはじまる前に僕が探しに行ったんです。年俸が高い選手はダメだったから、欲しい選手は手も出せなかった」。連れてきたFWは働かなかったが、守備面を強化することで、だんだんと順位を上げていく。シーズン途中から加入したサイドバックの西村やFWのトゥット、そして森田 浩史の大活躍でJ1昇格の階段を一気に駆け上がっていく。三浦本人は「J1に昇格すると確信したのはリーグ戦のラスト4試合になってからだね」と言う。
J2からJ1にチームを昇格させたことで、三浦は1つの使命を達成した。
「1991年にプロのコーチになりたいと思ってドイツに渡った。日本にはきちんとしたプロライセンス制度がなかったからね。ドイツに行ってから日本にコーチングのプロライセンス制度ができた。1997年に運よくS級ライセンスを取得できた。JFLやJ2の中でしか指導をしていなかったので、いつかJ1で采配を振るってみたかった。あの頃は、東京ガス(現FC東京)とか次第に上のレベルに上がっていったので、あんな風に大宮もなれたらいいなと思っていた」
三浦本人は、「意識していなかった」というが、JFLやJリーグで選手経験が1度もない人間が、プロサッカークラブの監督をやることは、三浦が日本での先駆けである。
川本梅花