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【ノンフィクション】水沼宏太(横浜F・マリノス)「息子が父親を凌駕する瞬間~父から息子へ継承されるもの~」【無料記事】川本梅花アーカイブ

目次
買ってもらえなかった日本代表のユニホーム
試合に出られない日々と西谷コーチの救いの手
プレースタイルの確立
フル代表のユニホームを着る日まで

買ってもらえなかった日本代表のユニホーム

ナイター設備のないグラウンドは、数台の車のヘッドライトに照らされてオレンジ色に染まっている。あざみ野FCのサッカー少年団に所属する子供たちが、車から放たれる光を頼りにボールを蹴り合う。

練習が終わると、水沼 宏太は父の貴史のそばに歩み寄る。

「日本代表のユニホームが欲しいから買ってくれる?」

宏太は父に頼み込む。

「ダメだ」と父は即答する。

「代表のユニホームは自分の実力で取るものだから。自分で最後に着られるようになればいいだろう」

そう言って、帰り支度を始めた。

水沼が小学校の頃に所属していたあざみ野FCは、子供たちに自分たちが好きなチームのユニホームを着せて練習させていた。水沼は、父の貴史が着ていた日本代表のユニホームをせがんだ。しかし貴史は息子の頼みを断った。

「練習の時に好きなユニホームを着られるのは、子供たちのモチベーションになるので、悪いことではないと思います。でも僕としては、代表のユニホームは買って与えるものではなくて、自分の力で勝ち取って最終的に着るものという認識がありました。確かに、代表のユニホームを着られれば、1つのモチベーションになるけれども、将来の夢のためにとっておく方がいいと考えました。まあ『代表のユニホームを買ってあげるよ』と素直には言えないところもあったんですけどね」

貴史は当時を思い起こして、そう語った。

水沼の父の貴史は、浦和市立南高等学校(現さいたま市立南高等学校)出身で全国高校サッカー選手権では優勝経験があり、その後、法政大学に進学して総理大臣杯を勝ち取る。さらに、日産自動車サッカー部に入団して木村 和司や金田 喜稔らと共に日産の黄金時代を築いた。また日本代表でも活躍して、ワールドカップ・イタリア大会のアジア予選、対北朝鮮代表戦での同点ゴールは多くのサッカーファンの記憶に残っている。ケガなどにより満身創痍の体の中、1995年に惜しまれながら引退した。

水沼は「サッカーを始めたのは、たぶん父の影響です」と話す。ボールを最初に蹴ったのは1歳の時だった。自宅にあったクッションボールを相手にしていた。3歳になって家の近くのサッカーチームに入る。1993年は、ちょうど日本初のプロフェッショナルリーグであるJリーグがスタートした年だ。貴史は、自分の出場する試合が行われる国立球技場に息子を連れ出した。5万9000人の大観衆が見守る日産マリノス対ヴェルディ川崎の開幕戦である。

水沼は、小学校2年生の終わり頃にあざみ野FCに入団する。

「公園で父と一緒にボールを蹴りました。子供って普通はアニメとか見るじゃないですか。俺は、父がプレーしているサッカーのビデオを見ていたんです。日産自動車の頃とか日本代表の時か。何も考えずに、ただ漠然と画面に映る父の姿を見ていたという感じでした」

彼は幼少の頃に見た父のプレーをはっきりと覚えていた。

そして父の貴史も同じ情景を語る。

「どこの親もそうだと思いますが、自分がサッカーをやっていたから息子にもやってほしいと考える。宏太がサッカーを始めたキッカケは、僕がやっていたからというのは間違いないと思います。1歳の頃、家にクッションボールが置いてあってそれを蹴っていました。サッカーの感覚的なところを覚えさせたくて、公園で一緒にボールを蹴ったりもしました。あとはサッカーのビデオがたくさんあったので、あいつは1人で勝手に見ていましたね。あまりに何度も繰り返して見るので、ビデオデッキが壊れたことがありました。ちょうどJリーグが開幕してスポーツニュースなどでよく取り上げられていましたから、それらの映像を録画したんです。宏太は、エバートン(元横浜マリノス)のゴールパフォーマンスを何度もまねていましたよ。僕が『エバやって』と言うと両手を広げて何度もやってくれました」

あざみ野FCは保護者も子供たちと一緒にボールを蹴る機会があり、「ボールはこうやって蹴るんだよ」と貴史が実演したこともある。チームは約30人。練習は土曜日と日曜日。水沼は、すぐに試合に使ってもらってポジションはFWだった。彼が小学校5年生の時に、チームは全国大会に出場する。さらに小学校6年生になると、神奈川県の県大会の決勝戦で、水沼が先制点を決めて2-0で優勝する。小学生の彼は、現在のプレースタイルであるトップ下やSHとは違っていた。CFとしてトップでボールを待っているスタイルだった。

その頃、水沼の相棒的な存在だったのは、同じFWで2トップを組んでいた金井 貢史(横浜・F・マリノス所属)だった。「俺がトップで張っていて、貢史が周りを走って、俺のところにパスをくれて、ゴールを決めるみたいな感じでした。とにかく点を決めるのが好きだったんですよ。相手の嫌なところを探してゴールを決めるのが好きでした」

貴史は小学生の息子にサッカーを通して「周りの子供たちとコミュニケーションが取れて人と仲良くやっていくこと」を学んでほしいと思っていた。そして「一生懸命やって、その結果としてプロになれたらいいと。僕は前のポジションの選手だったからあいつにも前でやってほしい」と願った。

水沼は父の勧めもあってサッカーと並行して、幼稚園から小学6年生まで水泳にも力を入れていた。「子供の頃にスポーツをさせるのはいいことだし、水泳は体力強化になるから」と貴史は語る。

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