今西和男は新スタ建設の種を撒いた人物だったのか? 「(オールフォー)ヒロシマ・ノート」第01回<2/3>
広島に街なかスタジアムを作る──。この総大な計画の起点となったのは、2003年4月1日に立ち上がった「スタジアム推進プロジェクト」である。そしてエディオンピースウイング広島(Eピース)が開業したのは、2024年2月1日。この間、実に21年もの年月が経過したことになる。
この21年間をわかりやすく区分してみよう。私が21年の歴史を一冊の書籍にまとめるとしたら、以下の章立てを考える。
第0章 今西和男を事務局長とするスタジアム推進プロジェクトの時代(2003~06年)
第1章 ALL FOR HIROSHIMAの立ち上げとさまざまな活動(2008~09年)
第2章 旧市民球場フォーラム発足から市民球場解体まで(2010年~11年)
第3章 「START FOR 夢スタジアム HIROSHIMA」からサンフレッチェ広島3回目の優勝まで(2012~15年)
第4章 みなと公園案と旧市民球場案、そして中央公園案決定まで(2016年~19年)
第5章 新スタジアム建設から開業まで(2020~24年)
ここで留意したいのが、Eピースの指定管理者であるサンフレッチェ広島は、最初から最後までストーリーの中に登場するわけではない、ということだ。
サンフレッチェ広島は、広島県サッカー協会、そしてサンフレッチェ広島後援会と共にスタジアム推進プロジェクトを立ち上げ、GMを退任したばかりの今西を事務局長に据えている。この人事を決定したのは、当時社長だった久保允誉(現会長)であろう。
ところが、旧市民球場跡地利用のコンペで落選した2006年5月21日以降、スタジアム推進プロジェクトの活動に関する報道は、まったくと言ってよいほど見られなくなる。組織そのものが発信した形跡もない。同プロジェクトは、ほどんど今西のワンオペ状態だった可能性も考えられる。
その後、サンフレッチェ広島からスタジアムを求める声は、まったくといってよいほど聞かれなくなる。次の機運の高まりには、2012年まで待たなければならなかった。
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