【新連載】もしも「サッカー」じゃない人生があったなら 第01回:1994年の宇都宮徹一
■なぜ30年前に「サッカー」を選んだのか?
遅咲きの桜が、都内で満開となって4日後。すでに外濠公園の桜は散り始めていて、はらはらと雪のように薄いピンクの花びらが舞っている。
桜の花は、さまざまな記憶を呼び覚ます。総武線の飯田橋と市ヶ谷の間をつなぐ、外堀通り沿いの桜を眺めながら思い出すのは、楽しいことがほとんどなかった20代後半のあれやこれや。1994年、今から30年も昔の話である。
30年──。それなりに重みのある年月だ。去年は、Jリーグ開幕から30年。そして来年は、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件から30年だ。世の中的には、特に周年を意識されることはない1994年。しかし、私にとってこの年は、大げさでなく「人生の分岐点」だった。
1994年は、私がサッカーの仕事をするようになった、記念すべき年である──。より正確を期するなら、サッカーのTV番組やビデオを制作する会社に転職したのが、この年。以来、多少の紆余曲折はありながらも、私はずっとサッカーをテーマに仕事を続けている。光陰矢の如し。28歳だった若造も、気がつけば還暦間近の58歳になった。
「宇都宮さんは東京藝術大学の出身ですよね。なぜサッカーを取材する仕事をしているんですか?」
初対面の人から、たまにそんな質問を受けることがある。逆に問いたい。経済学部出身が、銀行や証券会社以外に就職するのは、おかしいことだろうか。文学部や法学部出身者が、必ずしも文学者や法律家になるわけでもないだろう。
藝大の彫刻科や楽理科からビジネスで成功した友人もいるし、写真家で作家の藤原新也は藝大の絵画科油画専攻中退だ。工芸科彫金専攻を修了した人間が「写真家・ノンフィクションライター」となっても、何ら不思議はない。
問題は「なぜ、サッカーだったのか」。他にいくらでも取材対象があったはずだ。アートとか、旅とか、動物とか、食べ物とか。なぜサッカーという、この国において決してメジャーではない、いちスポーツ競技に30年もの月日を費やすこととなったのだろうか。
30年という節目の年に、あらためて振り返ってみるのも悪くない。ということで、私がサッカーに関わるようになった「1994年」について、月イチ連載の形で書き連ねていくことにしたい。ちなみに今回のサブタイトルにある「宇都宮徹一」とは、写真家・ノンフィクションライターとなる前の私の本名である。
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