あえて「現役引退」にこだわらない生き方 元Jリーガー幸野志有人の現在地<2/2>
<2/2>目次
*FC東京に定着できず「レンタル疲れ」
*クラブの転換期にプレーできた長崎時代
*辞めたくなったら辞めるというスタンス
■FC東京に定着できず「レンタル疲れ」
──志有人さんは16歳でFC東京に入団して、17歳で大分トリニータに初めての期限付き移籍をしています。当時としては国内最年少の移籍だったと思うのですが、ご自身の希望だったのでしょうか?
幸野 僕から強化部長に「出場機会がほしい」と願い出て、大分に行かせてもらったんです。今とは違って、当時のFC東京には実績のある選手が多くて、若い選手を試す機会も限られていました。僕自身、実力的に足りないところも多かったので、レンタルでの移籍を希望しました。大事なことは、FC東京の一員であることよりも、試合に出ることでしたから。
──それにしても17歳で強化部長に直訴するって、なかなかできることではないですよね?
幸野 それまで試合に出られないという経験がなかったので、単純に辛かったですし、どんどん自分が駄目になっていくという不安もありました。どういう不安かというと、周りにすごい選手がたくさんいると、自分もすごいと錯覚してしまうこと。だからといって、移籍することに不安がないわけでもなかったです。今とは違って、当時のレンタル移籍は「片道切符」的なイメージもありましたから。
──その後、FC東京には2回戻ってきますが、大分以降も町田、長崎、千葉、山口でプレーしています。そのうち、最も出場機会を得られたのが長崎時代でした。2013年に32試合。なぜこれほど重用されたのでしょうか?
幸野 当時の高木(琢也)監督が求めるサッカーに、自分がアジャストできたことが大きかったと思います。
──長崎での高木さんのサッカーって、わりと縦方向に速いイメージがありましたが。
幸野 ショートカウンター主体でしたよね。ですから僕みたいに、ボールを落ち着かせられる選手というのは、マイノリティとして重宝されていたんだと思います。実際、試合に出させてもらっていたこともあるし、チームの中では自分の特徴を出せていたので、長崎時代はとても楽しかったですね。逆に山口にいた時は、僕と似たようなタイプの選手が多くて、埋もれてしまっていたように思います。
──長崎で思い出深いシーズンを送った一方、FC東京での出場はリーグ戦とカップ戦含めて5試合でした。これについては、どう捉えているのでしょうか?
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